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育児を通して感じる世間と社会の社会学

今日は、社会学なお話です。
社会学とは、簡単に言うと「当たり前を疑う学問」のことです。
社会学は個人的に、生きていく上でかなり大切な視点を与えてくれるものだと思っているのですが、
これについて語りだすと長くなるので改めて今度書きます。(笑)

とりあえず今日は社会の一側面を切り取って社会学的に考えてみたので、お付き合いいただけると嬉しいです。

「社会復帰」という言葉への引っ掛かり

さて、突然ですがわたしは、「社会復帰」という言葉があまり好きではないです。
それは、ある人に何気なしに「もう少しで社会復帰だね!」と言われたことがきっかけでした。

わたしはこの約1年間の妊娠期間と育児期間、
どこかに就職するのではなく、できる範囲で個人事業主として仕事をするやり方を選んでいたため、側から見たら「育児に専念している人」として社会生活から離れている人だと思われていたのだと思います。

そう思うのは自然だし、否定しないし、正直どんな認識でも良いのですが、ひっかかったのが「社会復帰」という言葉へのモヤモヤ…
たぶん、世界を断絶されているような気持ちになって、なんとなく寂しくて、悔しかったのだと思います。(笑)

なんとなく、この言葉を言われると「わたしは社会に生きているから、いまはあなたとは住む世界が違うよね。でも、あなたもこちら側に来るのね!」みたいな感じがしませんかね。
そこに変な劣等感がわたしの中にある気がしていて。
「社会に生きていない今までのわたし」には価値がなかったけど、「復帰」することでその価値を得られる、と捉えてしまっているのかなー、と。

まあなんとなくそんな感じでモヤモヤしているのかなあと思っていたのですが、
それでもなぜだかずっとこの言葉が頭から離れず…そしてふと、最近読んだ『何とかならない時代の幸福論』が頭によぎりました。

日本的な「世間」と「社会」


こちらは、鴻上尚史さんとブレイディみかこさんが、日本の教育や社会について対談している本。

この本の中には、「世間」と「社会」の考え方について書かれている部分が多くありました。

日本は「世間」にはとても優しいが、「社会」に対しては一定の距離を持っていて、「社会」の中の他人には厳しくなる側面がある。
「世間」がとても重要なのが日本社会だと。

たとえば、本の中でも出てきますが、菅首相が以前「まず自助があって、共助があって、公助が来る」と言っていたことがありますね。
この感覚、いまの日本を表しているなあと思います。

自分の身近な存在と、それ以外の存在がぱっつり分かれている社会。
核家族で都会に住みながら子育てしていて、両親が遠方に住んでいるとよく、「頼れる人がいないのです」という声を聞きますが、これがまさしく日本社会であり都会的だなあと思っていて、
つまり自分の身近な存在にならないと頼れない・頼らせないという空気(この表現も日本的)がみんなにあるように感じてしまう。

この本の中では、ブレイディみかこさんがイギリスの相互扶助についても詳しくお話されていますが、読んだ感じ、イギリスでは「相互扶助」がかなり開かれているなあと感じました。
「お互いに助け合う」という概念が社会の中にも存在しているから、
コロナ禍で「食事に困っている人、わたしに連絡ちょうだい!→(個人連絡先)」みたいなことが普通に起きていて、
そこにはプライバシーとか見返りとか安全性とか…そういうの度外視の姿勢があると書かれていました。

一方、日本で同じことをしようとするといろんな不安を煽られますよね。
「そんなことして大丈夫?!」みたいな、それこそ安全性が担保されていない「社会」に発信することは、リスクがあると感じている人が多いです。
でも、家族だったり親戚や友だち、職場の人たちなど、個人それぞれの「世間」の中では、積極的に助けようとします。
つまり、日本では相互扶助は世間の中で行われている。

田舎でよく聞く、「よそもの」も近いかもしれません。
都会から田舎に移住したばかりの頃は、地元の人たちから「社会の人」と思われているけれど、
いろんなことを通じて交流していくうちに地元の人たちの「世間」になれる感じ。
最初は完全な他人という意味で使われていた「よそもの」という言葉が、地域の中で世間認定されると、「俯瞰して地域のことを見ることができる者」として「よそもの」と呼ばれたりします。
このふたつはまったく意味が違っていて、前者は得体の知れない他人という意味合いがありますが、
後者は自分たちのことを理解している他人という意味合いです。

長々と本の内容から「世間」「社会」についての概念を話してしまいましたが、「世間」と「社会」の乖離、そしてその狭間の世界を感じやすいのが、育児中。
「あなたの子どもだからあなたがお世話するよね」がベースの社会で、しかもそれにプラスして性別役割分担の意識もあるから、もういろいろモヤモヤが溜まる現実があります。

グラデーションの世界から

そしてもうひとつ思うことがあって。
ネット世界はこの「社会」の側面を表していると同時に、
「社会と世間の間の世界」での生き方や振る舞い方を知らない人たちが日本にはたくさんいることを痛感させられる場だと思います。
たとえば、だれかが質問欄に書き込みをすると、それに纏わる経験者たちがいろいろアドバイスをします。
そこでの質問者と回答者の関係性は「社会」でもなく、「世間」でもない、その狭間の関係性だとわたしは考えています。

なぜなら遠い赤の他人とは言え、ある側面から見れば同じ状況で生きる戦友のような感じで、
それでいて本名や住んでいる場所は知らない。
社会ほど遠くはないけれど、世間ほど近くはない感じかな。

そうなると、他人との線引きができない人、というか、そんな関係性を経験したことが少ないから、とにかく他人にズケズケ入り込んで言いたいことを言ってしまったり、
逆に「どうせ赤の他人」と思って普段身近な人には言わないような言葉を言えてしまったり。
それがネットの誹謗中傷に発展することがあるのではと思います。

ただわたしは個人的に「世間」と「社会」の間にある世界が、本当はとても大切なのではと思います。

「世間」と「社会」の間に、グラデーションのようにまたゆるい繋がりの世界があると楽なのではないかなと思うことがあります。
お互いのすべてを知っているわけではないけれど、あいさつはするし信頼はする。
めちゃくちゃ一例だけど、同じマンションに住んでいて、特にママ友とまではいかないんだけれども、子ども同士を遊ばせたり、お互い困った時は面倒を見合ったりするような関係。
それがかつての地域コミュニティにあった「お互い様」という感覚に近い気がしています。

育児中、たしかに少し社会から離れている期間があるかもしれない。
「社会復帰」までもう少しなわたしも、社会を意識する瞬間はたしかにあるから、そう言われても仕方ない。

でも、子育てをしていると世間と社会の間を感じることがよくあります。
だから、「助け合う」が当たり前の子育てになるといいなと思うのです。

なんて、いろいろ壮大なことを好き勝手に書いてしまった気もするけれど、
育児していて見える世界って本当におもしろいし、謎が多いです。
もっといろいろ勉強したいなと改めて思います。

そして最後に、鴻上尚史さんとブレイディみかこさんの『何とかならない時代の幸福論』、おもしろいのでおすすめです!
本を読んでいろいろと考えを整理していく過程は楽しいなと改めて感じさせてもらいました。

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