亜人間都市『東京ノート』と、最近の作品について。

 前回の続き。日曜日の昼。早稲田小劇場どらま館で亜人間都市『東京ノート』を観た。ここからは前回書いた内容、「作品がどう作られたのかについてあまり興味を持つことができない」ということに対して、あまりに違うじゃないかということを書く。


 実はこの公演が行われるかどうかについて、外部に出ていた情報から少し心配していた。定期的にこの公演のサイトをチェックしていたので、公演が割と近づいていた段階で出演する木村のばらさんが出ないということを知った。出演者の体調不良は稀にあることだし、引き続き頑張って欲しいなぁと思っていたら、その代役を亜人間都市の主宰の黒木さんがやるという。台詞を覚えているとかそういうのはあるだろうけど、そもそも性別も違うし、それだいぶ違う印象にならない??という感じだった。
 『東京ノート』は映像で少し見たことがあるのと、ミクニヤナイハラプロジェクトの上演で見たことがあった。また、その際に戯曲も一通り読んだ。僕はミクニヤナイハラプロジェクトの『東京ノート』は途轍もない傑作だと思っていて、今回の亜人間都市の公演は単純な数字の比較をするならば、その逆をやるという感じなのかなというのがなんとなくの予想だった。とにかく数多く出てくる登場人物が分裂したかのように演じるのがミクニヤナイハラプロジェクトの公演だとすれば、亜人間都市はそれを逆に3分の1で演じるというのだから。一人が複数を演じることで、人が内面に持つ複数性を炙り出すみたいなものかなと思っていた。とはいえ、『東京ノート』はそういう方向性で作られた作品ではないために、その演出プランを考えるだけでも相当に大変だと思うのだけれど、今回はメインの演出家というのは置かずに、全員でクリエイションをしていくような形で作っていったということだった。この辺りの内容を知れば知るほど、チャレンジングな試みが多すぎないか…という気がするのだけれど、トラブルも発生していて最後まで上演にこぎつけることはできるのだろうかと思っていた。


 上演を見てみて、予想が当たっている部分はあったが、それ以上にこの方式で出来る表現というものがあったという感じだった。黒く塗りつぶされた舞台上のコップや便器などのモノや、宙吊りにされたメタリックなデカい四角い箱のようなものはかなりこの作品にプラスになっていた。本来戯曲上で想定されている美術館には見えないこのセットによって、「東京ノート」の戯曲の台詞がそのまま発されているはずの上演されているこの場所は、場面によってはSFに見えるかのように機能していた。また、限られた人員で様々な関係性を表現することから、LGBTのようなことや、同性婚のようなことがすっと立ち上がっては消えていくような感触があり、この点はかなり面白いと感じた。そういった事柄を重々しく扱うことや、(残念ながら)ギャグのようにして扱うことは上手くいくかどうかを置いておけばどちらも簡単にできるのだけれど、これくらいの距離感で「んん??」と思った瞬間にはそのことがなかったかのように進んでいくというのは難しいバランスではないかと思った。そのシリアスでも笑いでもない距離感が、舞台セットと相まって現代ではない感があったように思う。俳優に話を移すと、スペースノットブランクの作品でめっちゃ好きになった石倉来輝さんは今回も登場のシーンから良くて、彼と渕上夏帆さんがセットでいるだけ決して台詞を発することがなくても絵になるのがとてもよかった。作品後半でも彼が立っているだけで、場が定まる感じがあり、これを演出家を立てずに俳優一人一人が考えて作っているのだとすると、相当自己認識がきっちりしているのでは?と思った(そして、終演後に観客の方と話しているのを見たら舞台上での動きや印象が全然違ったのでビビった)。


 ただ、役が変わった黒木さんが出てくる場面は全体的にかなり苦労して作ったんだろうな…ということを感じずにはいられなかった。舞台セットの印象もあって、カゲヤマ気象台的な方向の演技に見えたのだけれど(この部分がSF的な印象を強めているかも)、他のメンバーと比べてだいぶ演技の方向性が違っているな…と感じた。衣装含めて作品内での異物感がかなり強くて、それはどういう意図だったのだろうか?という疑問が残ったまま作品を見続ける感じがあった。東京ノートの元々の台詞が男性/女性の性差が強く出ている感もあり、もしかすると戯曲の台詞の語尾を意味が変わらない程度に変更するだけで印象はだいぶ違ったのかもしれないが、それはそのまま残したほうが良いとかそういった話もあったのかもしれないが、それはわからない。セカンドベストであったとは思うけれど、本来のベストな座組での作品を見てみたかったなとはやはり思ってしまった。そうした意味では難しい試みにチャレンジしたことが逆に仇となってしまったという感じだろうか。ただ、トータルで見ればすべてが成功した訳ではないけれど、見れてよかったなと思った。

 ここで情報開示すると、僕は公演の予約サイトPASSKETというサービスを運営していて、亜人間都市は僕のサービスを最初に使ってくれるユーザーで、この『東京ノート』は最初に予約を受け付ける公演となった。そして、こちらの不備、端的にいえば大小様々な不具合やイケてないUIを一つ一つ踏んでしまっては、そのことを丁寧にフィードバックしてくれる本当に貴重なユーザーだった。黒木さんから連絡を受ける形でこちらが返信をし、たまにいくつかやり取りをする。不具合を見つけたときに発生するということで、不定期ではあるけれどやりとりは何度か行われた。先程の俳優の降板というのは、予約ページもそうした経緯があった末に作られ、特にトラブルもなく予約も開始され(ちなみにこの公演に最初に予約したのは当然僕だ)、あとは公演日を迎えるだけだなと思っていた頃の話だったと思う。自動テストがうまくいっていない関係で、何かしらの修正を入れた後には必ずこの公演の予約ページを開いて動くことを確認していたのだけれど、その際にその降板を知ったのだった。その頃から黒木さんからの連絡もなくなり、これは予約もトラブルなく回っているなー、やったぜ!と思っていたが、公演当日に配布していた、「東京ノートのプロセス/カイセツ」という冊子も読むと、単に連絡するような暇がなかっただけだったんだな、これは…ということがわかった。


 そうしたことの何が問題なのかという話なのだけど、人間の問題として「知ってしまったことをすぐに知らなかったことにはできない」というのがある。データベースは簡単でDelete ほげほげとかいってSQLを投げてしまえば、消したいデータはものの見事に消えてなくなる。idとかを自動で繰り上げたりしていると、そこにデータがあったんだな…という面影のようなものは残るけれど、それを認識できるのは人間だけで、データベースの側からはそうした面影に思いを馳せることはない。なので、僕はこの公演を見ているときに少なくとも他の公演を見ているかのようにフラットな気持ちでは見ることはやはりできなかった。僕が黒木さんと何の接触もなく、降板のことを知らずにみたら作品の印象は大きく異なったであろうが、それはもう知ってしまったのだから無理で、作品の事情を伝えるということにはそれが公演の前であれ、後であれ作品の印象に対して何かしらのバイアスを与える。このことは書き出すと長くなるのでこのくらいに。

 この作品や金曜日に見た鳥公園、日曜日に見た萩原雄太『更地』の3作を通して思ったのは、作品を作るというプロセスが実はとてもおもしろいものなんだろうなということだった。演出の場面などをあまり見たことがない私のようなものは未だに演劇の演出イコール「蜷川幸雄の怒鳴りつけながらモノぶん投げ」みたいな、どこで刷り込まれたその認識…みたいなものを捨てきることができないのだけれど、今の若い演出家が作品を作っていくプロセスというのはもっときっと「良い」ものなのだろうなと思う(「良い」という言葉が適切な表現なのかは難しい。が、代わりのよりふさわしい単語が思いつかない)。そのことを考え始めたきっかけは、スペースノットブランクの直近の2公演(早稲田と下北沢)なのだけれども、作品のクリエイションの高揚度や快楽みたいなものをダイレクトに作品に反映できないだろうか、みたいな意識を感じることが多いなと思ったのだった。特にスペースノットブランクの先日の公演でビビったのは、上演を横に座ってみていた演出の小野さんが本番中にも関わらずある場面で声などは出さずに爆笑していたところだった。蜂巣さんの演出も実はそういうところがあるのかな…とも思っている。この辺りの感覚はまだ全然まとまっていない。ただ、演劇というものをもう少し理解するためにも、戯曲を目で読むだけでなく、音読するという経験はもう少し積んだほうがいいのではないかと思った。そして、それは一人より複数人のほうがいいんだろうけど、企画するとかは準備とか時間かかるなーと思うので、とりあえず家にある戯曲を時間があるときに音読してみたいなと思ったのだった。

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