鳥公園『おねしょ沼の終わらない温かさについて』とシアターコモンズ 萩原雄太/太田省吾『更地』を観て。

 金曜日、東京芸術劇場にて鳥公園のアタマの中展で『おねしょ沼の終わらない温かさについて』を観た。この展覧会は日替わりで演出家が鳥公園の戯曲を元に作品を作っていくというシリーズで、朝の11時から18時までの間に作品の制作を行い、その日の19時に上演を行うという形式が取られていた。僕が観た日はグループ・野原の蜂巣ももさんが演出だった。僕は昼間は仕事をしていたので、クリエイションの現場に立ち会うことはなく、上演のみを見ることになった。作品の上演前に鳥公園主宰の西尾さんから自分でも難しいと思う戯曲をお願いしたこと、また、今日の作品が最後まで完成していないために途中からリーディングの公演で途中で蜂巣さんの演出指示も行われるとなる旨が伝えられた。

 作品は全員が台本を持ちながら演技を続け、ある場面まで進んだところで照明が落とされ、再度照明が点いてからは予告どおり全員が着席した状態でのリーディングとなった。どの役者も自分に役を落としている感じがあり、それはリーディングのパートになっても変わらないという印象を受けた。中でも、スペースノットブランクの中澤陽さんの佇まいが好きで、ヌトミックの『ワナビーエンド』のときも良かったけれど、この作品でもとても良かった。ということで、ここまでは良かった良かったしか書いていない訳なのだけど、個人的にはその後のトークがとても蛇足に感じたし、興味の持てない内容を1時間近く聞かされてその日はとてもイライラしたのだった。そのトークの内容は彼ら彼女らのクリエイションのうち、大半を使ったという役の理解のために使った絵の説明についてだった。演出の蜂巣さんがどの役者にどういう指示の元、絵を描かせたかを説明し、その後で役者がどういう意図でその絵を描いたか説明していった。西尾さんはその絵も作品の一部であるというように話していた。だが、今回の作品制作のレギュレーションを見る限り、制作の制限時間が恐ろしく短く、その時間内でどこまで作品を作れるかということなのだと思っていたのに、この絵の制作に数時間も費やしたと聞き、いやいや、それは何かがおかしいのではないか?という気持ちがここで初めて湧いてきた。最初から難しいと誰もが思っていた戯曲を作品にしていく中で、作品の上演そのものではない作業に多くの時間を割くのは明らかに最初から完成することを放棄しているし(西尾さんもクリエイションの様子を見ていて、最後まで演出を終わらせるつもりがないという認識を持っていたようだった)、完成していないものを観客に提示するということが前提になっているし、それを全く悪びれるでもなく説明するというのはなにか変ではないかと思ったのだった。個人的にはそういった認識があったこともあり、俳優の方々が描いた絵について何の興味を示すこともできなかったし、その説明をしていくことそのものが言い訳でしかないと感じてすらいた。なぜ、彼ら彼女らの言い訳を聞くために更に1時間も時間を奪われなくてはいけないのか…という怒りすら覚えた。結局、そのトークはタイムマネジメントがグダグダで俳優全員に説明させることもできず、何をやりたかったのかわからなかったまま終わった。作品を見終わったときには特に怒りもなく、短い制作時間だとこんなもんかな。でも、良かったなと思っていたものが、アフタートークを通じて行かなきゃ良かった…という気持ちになった。


 日曜日。夜にシアターコモンズ内のプログラム、萩原雄太/太田省吾『更地』を観て/体験した。この公演(なんと呼ぶのが正しいのかがよくわからないが、とりあえず公演とする)は「リーディング・パフォーマンス」とラベリングされていたが、内容としては太田省吾の戯曲『更地』に萩原さんが間のとり方をト書きに記したテキストを参加者全員で輪読(音読)していくというものだった。『更地』は突然自分の自宅(おそらく一軒家)が飛んでなくなってしまった更地に住んでいた夫婦の会話劇である。ト書き、男の台詞、女の台詞をそれぞれ順番に読んでいく。今回の構成/演出を行っている萩原さんも輪読に加わっての公演が始まった。順番に回ってくるので、どの台詞を読むかは計算すればわかるのだけれど、テキストを追っていることもあり、僕は3人くらい前になるまでわからなかった。そこで台詞に目をやると、もちろん長いものも短いものもあるのだけれど、特に短い台詞で「いや、これどうやって読めばいいんだ??」という疑問で頭がいっぱいになった。公演のはじめに、萩原さんが空襲を体験した人の発する「空襲」という言葉と、そうでない人の発する「空襲」では違いがあるといった説明もかなり効いていた気がする。僕がはじめに困ったのは、女の台詞の「おはよう」というものだった。更地になった場所で新しい生活を始めるという場面で最初に発せられる「おはよう」ということばは、一体どのようなものなのだろうか?輪読の流れを止めないためにも、数秒考えて言葉を出す。当然のことながら正解はない。ただ、文字を音にするときに存在する様々な可能性が自らが音を発した瞬間に順々になくなっていく。発し終わったあとも、本当にこれでよかったのか、この感じだったのか?という感じが残っていた。そこから他の人の発することばにより深く入っていけた気がする。なんとなく、この人とは同じような言葉の捉え方なんじゃないか?とか、この人とはたぶん解釈が違うなとか、とにかく主観を入れないようにしているなとかそういったものが入ってくるようになった。特に演出の萩原さんは席が隣ということもあり、彼の読み方やテキストとの向き合い方を間近で見ることができたのだけれど、常に迷いながら選びそれでもその選択を納得をしていきたいという感じにとても好感が持てた。戯曲を目で追って読んだことは当然あるわけだけれども、声に出すことで初めてわかる理解というのもあるな…と感じた。また、この『更地』は萩原さんがつけたト書きがとてもよかった。あの間によって生まれる余韻と会場の旧ノグチ・ルームが生み出す雰囲気とが相まって、とても幸福な気持ちになれた。


 このリーディングをやっている間には気が付かなかったのだけれども、帰り道に金曜日の鳥公園のあの公演はなんだったのだろうということについて、というよりも蜂巣さんがやっていたということの意味というのがほんの少しだけ理解できたように思った。あれは遠回りなようでいて、実はもしかしたら最後がリーディングのみになってしまうかもしれない作品の崩壊を防ぐための堤防のような機能を果たしていたのだな…と。そうしたことに、自分が初めてこのことばはどう読むのかを悩むという経験を通じて、俳優が戯曲を最初から最後まで読み通すということの困難さを初めて理解したのかもしれない(そうしてみると、台詞を発するということを内面は不要で発する速度でコントロールする平田オリザってなんなんだ…という驚きも改めてある)。でも、そこまでわかったとしても、やっぱりあの説明はいらなかったのではないか?というのは思っている。これは僕個人の問題だと思うけれど、作品がどう作られたのかについてあまり興味を持つことができない。どういった演出をしているのか?についてはぎりぎり興味が持てそうな気がする。けれど、例えば、作品作りの苦労というのは様々あると思うのだけれど、それを作品に滲ませて欲しくはないとどうしても思ってしまうし、苦労したかどうかと作品の良し悪しは関係がないと思っている。なんだったら、短時間で何のトラブルもなくできたほうが良いと思う。ただ、自分が一瞬つくることに触れる体験をしたことで、こうした内容のトークが作る人同士には刺さるのかもしれないな…という気持ちにはなった。でも、これどれぐらいの人が共感できる内容なんだろうか?僕は他の人ではないので、他の人の気持ちはわからないし、このことについて自分の考えは主張できたとしても、全観客を代表して意見を表明するようなことはできない。


 時間は少し戻って、日曜日の昼。早稲田小劇場どらま館で亜人間都市『東京ノート』を観た。これもこの話に続くのだけど、長くなったので次回に続く。続くはず…。

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