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供米と食管制度(#35 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

社会経済の変化・目撃者の記憶(供米と食管制度編)

本シリーズ「ニュース映画で現代社会を勉強しましょう(33)」では、闇米に関する茨城県政ニュース映画を取り上げました。

茨城県ニュースNO.6(1951年(昭和26年度)制作)のうち、7:28から始まる「供米を阻害するもの」と題された映像です。

これは、茨城県を中心とした農村地帯から、都市部に向けて、成田線や常磐線で、闇米が運ばれているという状況をレポートしたものです。当時の食管法の元では、生産者である農家は自家保有量以外を公定価格で供出し、政府は米穀配給通帳に基づき消費者へと配給する制度になっていました。

それ以外の流通手段を取ったものを、闇米と呼んでおり、当時の法規では違法行為に当たります。この映像も、それを指摘するもので、途中での臨検や取り締まりなどの様子などが、生々しく描かれています。

こうした闇米は、人の手によって運ばれていました。行商人ですが、映像にはその行商人が多くの荷物を担いで列車から降りてくる様子も映っています。

このように違法行為として糾弾されていた闇商品ですが、戦後の食糧難の時代には、実際には都市部の人々の命を繋いでいたということも知られています。ある裁判官が、闇米を拒否し食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死したことなど、聞いたことはあると思います。

こうしたダブルスタンダード的な規定は、今でもギャンブルとか性風俗などでも見聞きしますので、決して日本社会においては特別なことではないのでしょう。特にこの映像は、食に纏わるもののノンフィクションであり、この劇映画のような世界のことを、より深く知りたいと思っていました。

たまたまある研究プロジェクトで、茨城県利根町という地域と地縁を持たせて頂き、在住の現役行商人の方にインタビューする機会を持ちました。インタビュー当時、御年90歳で、現役の行商人として、メディアにも取り上げられており、既にこれだけの情報で、すぐわかると思います。

インタビュー内容などは、Facebookページで掲載する許可を頂いておりますが、こちらでは仮名にしておきます。

「終戦以来満6か年、いまだに闇米の移動はその後を絶たず、利根川を渡る数量は毎日平均500俵をくだらないとされています。現在ではこれらの人たちは、一種の職業人と化し、組合まで作り色々な方法を用いて、その移動は巧妙を極めています。」

このナレーションで、「これらの人たちは、一種の職業人と化し」と表現されている、いわゆる闇米を販売していた方の一人であり、今でも現役で都内にまで行商に行っている方のインタビューです。

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尚、このインタビューは、シニアの記憶を引き出し、記録する目的で行っているもので、このニュース映画に関係したものではありません。長時間のインタビューの中から、主に米の行商に関する部分を中心に抜き出します。

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以下、インタビューイのプロフィールです。
IF氏、昭和4年生まれ、茨城県利根町在住。職業は、行商人(自称籠背負い)。家業は農家だった。
16歳の時に終戦を迎えた。利根町近隣は、農業地帯だったため、疎開してくる人々が多かった。20歳に結婚して、隣町の利根町へ移転し、昭和25年ころから、行商を始める。お姑さんが元々、銀座に行商に行っていたため、家業を引き継ぐ形で、行商を始める。現在まで70年近く、銀座に行商に行っている。

行商の全盛期当時、行商列車が走っており、布佐、新木、小林、湖北、安食など、沿線から多くの担ぎ屋さんが、都市部に売りに行っていた。上野で乗り換えて、都電で銀座へ行き、行商をするのが定番コースだった。
当時は、米専門で、特に銀座の企業に売りに行っていた。食べ物が無かったので、米を持っていくと、飛ぶように売れた。一日に2回も売りに行った記憶がある。
景気が良くて、昭和30年以降は行商仲間と始終慰安旅行などに行っていた。

以下、戦後の米販売に関する話。(米は、当時食管制度で厳しく管理されていたので、米の販売は許可制だったため)よく上野駅で一斉取り締まり(注:立ち入り臨検)があり、何回も没収された記憶がある。
警官が来るとしかたなく米を上野駅に捨てたりしていたが、悔しかった。
供米などが厳しく、農家も米に必死だった時代だった。米が没収されると、よくお姑さんに怒られた。

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米のニーズが減ってから、野菜に変えていった。農家の人たちは、担ぎ屋さんに採れたての作物を依頼している。現在、成田線沿線には、行商人は、87歳、90歳(ご本人)の2人しか残ってない。

ここまでがインタビューの中の、行商に纏わる部分の抜粋です。
都市部の食糧不足は既に遥か昔の時代のことになってしまい、現在はほぼ悠々自適で、行商に行くのが生き甲斐にもなっているといった、今の話が中心になりがちなのですが、その合間に語られる、昭和20年代の米の流通に纏わる諸々、取り締まりなどの話は、その当事者の発言として極めて貴重だと思います。

中々認識できないところでしたが、担ぎ屋さんは、流通の代行業でもあったということが改めてわかりました。
こうした行商人による流通に乗る米を、茨城県政ニュースを含め、一般には、「闇米」と呼んでいます。
政府米と自主流通米以外で、私的な流通という意味でが、この映画でのニュアンスは、明らかに蔑称です。
そのため、米の行商人を犯罪者のように扱い、闇米を諸悪の根源のように描いています。
このニュース映画での次の話題が、「供米一番のりの伊一少年」という、父母を失い4人の弟妹を育てながら、供米の完遂を収めた、猿島郡静村の金久保伊一という15歳の少年が、農林大臣及び友末県知事から表彰される様子が取り上げられています。

供米少年

前回も書きましたが、両親を相次いで失った「足手まといの4人の弟や妹の面倒を見ながら、耕地約一町歩(注)を耕して、供米を他に先駆けて完了し(ナレーション)」た、17歳の少年にとって、農林水産大臣や県知事からの表彰状が、本当に必要なものだったのか、どう考えても疑問でしかありません。

※町歩
尺貫法における面積の単位で、 条里制においては、一辺の長さが1町の正方形の面積(1町が60歩なので 3,600歩)を1町(1町歩)としていた。 太閤検地の際に 3,000歩(坪)を1町とした。 Wikipedia

この一連の米制度の話題を見る限り、行政ニュースとして、食管制度をベースにした食料制度を尊重しているのがわかります。しかし前述のように、食管制度は実際には人々を支えるには不十分でした。
こうした行商人の方々が、いかに都市部を支えていたかがわかりますが、実際に行商側の証言を聞くと、その感をより強く抱きます。90歳の担ぎ屋さんが体験したのは、こういう時代だったということがわかります。

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尚、こうした行商人は多くが女性だったのは、男性が戦死しているか、兵役から帰ってきて復職することで、戦時中の働き手だった女性が失業することが多かったということが背景にあります。この辺りは、失対事業でも触れました。
その他にも、記録には残していませんが、ある男性による、あの頃復員して来た男性は、ほぼ全員腑抜けのようになっていて、とてもじゃないが働ける状態じゃなかったという証言を聞いたこともあります。

ちなみにここで押収された米は、払い下げられて闇に回って行ったということもあったようです。

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