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文字が文字である必要性

動画文化が随分と馴染んできたわけで。
そうなればカメラ1つで簡単にできてしまう動画と言うのはとても何かを伝えるのが楽なわけで。
でも今日も、動画を投稿するのが趣味なはずなのに文字を書いているわけで。

動画は上位互換では無い

動画でご飯を食べている身なので、もちろん動画の凄さを理解しています。
動画にはもちろんながら声や映像が乗るので表情などを見せることができ、
なおかつ編集作業を入れることで動画をさらにわかりやすくすることができる。
動画と言うのは相手に何かを伝える方法としてはかなり優れた方法だと思います。

でも世間は動画だけになってません。
魔法のiらんどだったりフォレトスページだったり。
自己表現の場としてまず、インターネットが使われるようになり、
どのプラットフォームも最初は文字や画像だけだったのにそのうち動画が投稿できるようになり。

でも今もnoteをはじめとして、文字が中心となるコンテンツが生きている。
これは文字と言う発信方法も受信方法も非常に優れているからです。
文字にはスピード感はあるかもしれませんが、実際問題のスピードはありません。
文字の表現方法を1つで流れている時間が早いのか遅いのか、表現することは可能です。
しかしいくらそれを表現したところで、その文字を読むのが早いか遅いかは全く別問題です。

なかなかの深さがありますが文字と言う表現方法は様々な方法で表現ができる上で、
なおかつ受信者に強制力を持たないという強さがあります。
いくらマイペースに読んでも誰にも怒られません。
私はよく使ってしまうのですが句読点の配置や言い回しの方法で強調文を変えたりします。

これがもしも動画の場合はしゃべるスピードや強弱をうまく使うことになると思います。
しかしながらしゃべるスピードが早すぎるとそれを受け取ることができない人も出てきてしまう。
または言葉が滑っているように聞こえて何も中身が入ってこないなんてことも。
しかし文字はやはりですが、文字自体の構成があまりに雑だと文字ですら滑ってしまう事はあるのですが、
基本的にはしゃべりに比べてこれらの現象は起こりづらいです。

文字というのは、発信者にも都合が良くて受信者にも都合が良い。
そんなとても珍しい発信方法の1つ
だと私は思っています。

文字でしか出来ない事が未だにある

芥川賞を始めとするような、いわゆる小説に贈られる賞というのも未だに存在します。
これだけ動画の世界が盛り上がっていたとしても、未だに続いているのです。
それだけ文字を愛する人がまだまだこの世の中には居ます。

私は文字を書く時にどこか「他人事にならないように気を付けて執筆するようにする」のを心がけています。
出来ればですが、喋っている私を知っている人がこの文字を見た時に「八神の文字だ」と分かってもらえるような。
そんな文章になればいいな、なんて。

そうなんです。
声が無くても、表情が無くても、トーンが分からなくても。
何故かその文字は「その人らしさ」を演出する
事が出来てしまいます。

文字なんて、フォントとかも調整が出来る訳だし、誰が書いても同じように見えるんだけど。
見えるんだけどどこか何か違う文字を構成する事が出来てしまうのです。

そして、私は万年筆で文字を書くように。
HHKBStudioでそれを執筆している時間が好きだったりします。
これは本当に気分で切り換えているのですが、以前に他の記事でも書きましたが音声入力を中心として執筆する事も多くあるのですが、
自分の気持ちを色々と書いてしまおう!みたいな記事になるとマイクがあったとしても敢えてキーボードで自分の手で文字を書いたりしています。
その時に鳴り響くキーボードのスコスコとした音、自分の意図通りにボタンを叩くとどんどん描かれる文字。
これに何かしらの感情を抱きながら、執筆をする事が多いです。
執筆をしてそれを世の中に出して誰かに見て貰える。
それがとてつもなく幸せだなぁなんて思ったりしています。

noteの特性かもしれないですが、スキを贈ってもらった通知などを見るとまたにまにましちゃったりして。
そして、またそのスキを見て思わず何か1本仕上げたいなって思ってしまったりして。
そんなこんなで、毎日最近は記事を書いているのですが、特に不満も無くストレスも無く綴ったりしているのですが。
これもまた、動画だったりすると話が変わってくる部分が多く存在するのです。

動画は見てくれを気にしてしまうから

例えば髪型はちゃんとセット出来ているか?とかそういう単純な話です。
文字は寝起きだろうとしても眼鏡をかけて、キーボードを叩けば文字が紡がれます。
しかしながら、動画の場合はそういう訳にも行きません。

どこか無機質な言葉という、文字という表現方法は無機質であるが故に、何かを通り越して私を見てくる事はありません。
だから本当に素直な状態で、色々と意見を述べたりする事が出来るのです。

文字というのは、随分オールドスタイルな手法でありながら、
それでいて、自由を与えてくれる表現方法でもあると思います。未だに。

文字で表現するのは別に古い方法では無くて。
今も昔も変わらない、代表的な情報発信の方法であり、個人の発信の方法であり、情報の発信方法でもあると思います。
もちろんYouTubeとnoteのユーザー数で言えば、圧倒的にYouTubeの方が多いのかも知れません。
だけど、パイが小さいからといってそこに居てくれるユーザーが良質なユーザーであれば、パイの数は気にしないでも良いと思うんです。

やっぱりYouTubeの方が人が多いからYouTubeで当てなきゃ駄目!みたいな事も目にした事があるのですが。
全くそんな事は無いと思います。
それこそnoteでもたまにあったりしますが、下品な事を言ったり下世話な事を言えば、誰かの注目は浴びられるかも知れません。
だけどそれっていつまでも「ライターとしての成長」は無いんですよね。
如何に「嘘をもっと大きく見せられるか」のスキルが上昇するだけであって、そんなテクニック使える世界が限られています。
そうじゃなくて、どこでも愛してもらえる記事であったり文字を「文字が好きな人が集まっているであろうnoteで」発揮出来て、
少しでも多くの人に見て貰える。

そうなれれば、多分だけどいつの間にかどこでだって誰からでも求められる文字が書けるようになると思うんですよ。
私も文字を書くのが大好きなんだけど。
文字を読むのも大好きで。
noteはなんだか何かに偏った人が愛を語っている記事が多く存在している気がするから、どれをみているのもとても幸せで楽しいんですよ。
だから、私も復帰組で偉そうな事は言えないけど。
お互いに楽しい文字を沢山書いて、お互いに楽しく執筆してようじゃありませんか。

令和かもしれないけど。
まだまだ文字って。とっても素敵な発信方法だと思いますよ。

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