シグモイドについての考察

以前から考えていることを言葉にしようと思い、筆を執りました。理系だったら学校で習う曲線です。シグモイド曲線はWikipedia先生によると以下のものになります。

生命科学で最初に学ぶシグモイドは、ヘモグロビンの酸素飽和度でしょうか。
ヘモグロビンはいくつかのサブユニット(サブユニットとは1つのタンパク)からなっていて、1つのサブユニットが酸素と結合することで、他のサブユニットがより酸素と結合しやすくなります。これによって、ちょっと酸素濃度が上昇すればより酸素への結合が起こりやすくなっている。これは逆には酸素濃度がちょっと下がることによって、酸素の乖離が末梢で起こることを説明しています。さて、これをちょっと掘り下げてみたいと思います。


シグモイドを色んなものに当てはめてみんとす

シグモイドは、横にX軸、縦にY軸としたときに、Xが小さい時にはほとんどY方向へは上昇しませんが、ある程度Xとなると、徐々に立ち上がり、少しすると微分値が最大となります。これがもっとX値が大きくなることで、だんだんXあたりの変化量は小さくなっていき、最終的にY軸のある値に漸近していくことになります。

さて、このカーブですが、X軸を時間、Y軸を習熟度と定義すると、僕がこれまでに見てきた様々な現象はシグモイドと(少なくとも感覚的には)考えられるのではないかと感じていました。

まずは上記の例と同様、生物の仕組みから。大腸菌の増殖曲線でしょうか。
例えば実験室で大腸菌を培養し始めてすぐにはいくら待っても全然大腸菌は増えてきません。不安になります。本当にこんなんで大丈夫なんか?と疑問を抱きつつ、終夜培養して帰ります。次の日、朝来てびっくり。培養液は物凄く濁っています。初めて大腸菌の培養をやった時、これは僕にとって驚きでした。

そして、もう一つ、生物の仕組み。赤ちゃんが立とうとすること。
赤ちゃんは最初ハイハイしていたのに、それが上手になって起き上がれるようになると、自分で立とうと試行錯誤します。最初はたくさん転びますが、転んで、立ち上がろうとするのをやめることはありません。そして何かにつかまり、つかまり立ちができるようになります。そこから徐々に手を放し、最初はこけたりしてしまいますが、そのうちに自分で歩行できるようになります。

さらに全然違いますが、勉強や仕事もそうだと思います。
新しく習う単元や行う仕事は最初ちんぷんかんぷんです。予備的な知識がある場合はともかく、そうでない場合、非常にこれは難しくなってきます。しかしながら、何回もそれを繰り返していくうちに、こうすればこうかも?と考えることができるようになります。そうなればもはや指導する必要はなく、あとは本人のやる気で勝手に伸びていくという具合です。そしてある程度習熟すると、プラトー(頭打ち)状態になり、少々の努力では伸びるようにはなっていかないわけです。

あるいは、人間関係もそうかもしれません。
例えば、ある環境にいて自分は浮いてるなーと思い、悶々とした日々を送ります。その間もその人自身のもつ思考回路はそのままなので、周囲とは隔絶した状況にあります。むしろ周囲には理解されないのではと想像できます。その状態でしばらくいることによって、その人の理解者と言えるような人と出会うことになります。それによって周囲から浮いている人は「自分はそのままでいいんだ」と思うことができます。そのままでいいと思えるようになって、そのままでいればいるほど、その人と波長が合う人と出会う確率が上がっていきます。ある程度まで行くとその人が関わることのできる人数に限りができて、新しく知り合う人は減っていくかもしれません。


シグモイド型の立ち上がりが起こるまでには何が起こっているか?

そう考えるとシグモイド型の経験って、立ち上がるまでは何も起こっていないわけではない。むしろかなり試行錯誤をしている。ただ結果は出てないだけ。例えばある反応が起こる場合、AとBがくっついて、この組み合わせじゃない、というのを繰り返しているようにも思います。もしかしたらDDとZZZという組み合わせに至らないと次のフェーズに行かないのであれば、これらの組み合わせを経験するまで試行錯誤を繰り返す必要があります。これは逆に言うと試行錯誤の回数を増やせば、結果的に次のフェーズに移行する確率が高くなるとも言えます。

英語学習に挫折する人はものすごくたくさんいると思いますが、その多くはこの試行錯誤部分が長すぎて、フェーズが次に移行する前に辞めているからではないかと思っています。これを克服するためには、細かくてもよいので別のフェーズに移ったと錯覚できること(例えば、単語を100個覚えたら、学んでいる単語を街中で見つけてみる、みたいな)を経験できる仕組みをそこに組み込んでおくことでしょうか。

世の中にはこれに対して、このシグモイド型の立ち上がりをできるだけ短くしようとするツールや本などが世の中には溢れています。5分でわかる・・・とか、すぐに理解できる・・・とかです。これは時間のない人にはいいのかもしれませんが、以前実際に読んでみて、僕にはあまり向いていないことが分かりました。それと別の経験から分かったのは、僕自身はたぶんこの「シグモイドが立ち上がるまでを楽しむことが好き」なのだと思いました。実はこれって今の世の中と逆行しているような気がしています。だからこんなnoteを書いているのかもしれません。

立ち上がるまでのシグモイドから学べること

今に始まったことではないですが、「効率化」というのが幅を利かせている世の中です。「効率的」とは、「無駄が少ないこと」と定義されます。では「無駄」とは何か?それは「ある目的に沿って役に立たないこと」ということでしょうか。そう考えると、「無駄」というのは、「ある目的」に沿って「役に立つこと」と「役に立たないこと」を分けることによって生じる後者ということでしょう。上記のシグモイドにおいて、「習熟度を高める、y軸の値を大きくする」という目標のためには、立ち上がるまでの時間が長いことは無駄であり、それをどれだけ省くことができるか、ということが大事なのかもしれません。それを考えると、上記のような「インスタントにお役立ち」というツールや思考法は重要かもしれません。しかしながら、試行錯誤して地を這っていて立ち上がるまでのタイミングは、異なる目的を達成するための足掛かりになるのではないかと思うのです。そう考えると無駄というのは、必ずしも無駄ではないと考えることができます。

また、「役に立たない」というのを生物の視点から見てみます。生物の体内は驚くべき仕組みでできています。ある反応に着目した時に「生成物」と同時にできてくるものを「副生成物」と我々は見なします。しかし、それは本当に副生成物でしょうか。あるものに着目したからそれは副生成物と見なすことになるわけで、生物はそれらを「主」とか「副」とか分けていません。つまり、そこで言われる「副生成物」は別の反応の原料にもなるわけです。これは上記の「効率化」を定義する際に生じる「無駄」という概念と同様です。これは何かを凝視するとその周りがぼやけるというのと似たようなもので、人間の普遍的な認識の限界なのかもしれません。

そう考えると、ある目的達成の際に生じる「無駄」と見なされるものそのものは、実は目的を変えることによって、そちらへ応用する際に重要な知見として使えるのでしょう。現在はシグモイド型の地を這っている時間が短い方が善しとされる社会であるような気がします。しかしながら、それは本当に重要だろうか(もちろん僕がその思考回路を持っているから、自らを正当化するためにそこに疑問を持っているということもできると思いますが…)。シグモイドの立ち上がりまでの時間によって行う試行錯誤は、僕らが汎用的な技術や考え方を身につけるうえで、自身の中に蓄積されるものと考えることができます。

そうすると、現代社会は、早く立ち上がれという外圧に対していかに抵抗して、自身の中で蓄積を増やす、すなわち立ち上がる前の状況でどれだけ試行錯誤の時間をとることができるか、という、ある意味外圧に屈しない強さが問われているような社会のようにも思うのです。

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