雑談に関する雑談、すなわち「メタ雑談」してみました

先日、しゃべり場 2回目を行いました。

第1回目は僕が声かけた学生さんがほとんどでしたが、第2回目は社会人の友人たちも参戦して下さり、10人ちょっとの会でした。盛り上がりすぎて、今回も午前1時頃まで話しました。僕が退出した時間以降も、初めましてどうし4人で引き続き話していたそうです。若いって素晴らしい。

 

さて、今回僕がいたグループで話題になったのが、「雑談」です。
雑談は大事!とはいうものの、「雑談」についてあれこれ考えることなんてなかなかないし、面白いかなと思い、そのまま話を流してみました。

この議論のきっかけとなったのは下記のnoteの記事です。

認知と感情のあいだ

先の記事によると、認知的信頼とは「この人になら仕事を任せてもちゃんとやってもらえる」という信頼感であり、感情的信頼とは「この人になら弱みをみせてもよい」と思う信頼感をもてること、なのだそうです。なるほど、日常生活に照らし合わせてみても、この信頼感の種類を分けて考えるというのは納得ですね。

この記事の中では、「テレワークによって会社の人と共有する時間はほとんど会議のみになってしまった。効率化と言って認知的信頼だけで成り立つような形で仕事をするのは結構危うくない?そこには感情的信頼を醸成するという視点が欠けているのではないかという懸念がある、ということで雑談や遊びをいれるって大事だよね。ということでした。

この記事を紹介して、ではそもそも「雑談」ってなんだろうか?と雑談してみました。こういうのって、メタ認知ならぬ「メタ雑談」とでもいえばよいのだろうか…。

まず、ある修士1年の学生さんが以下のような内容を共有してくれました。
それは、雑談は感情的信頼の醸成に役立つということだけど、認知的な信頼にも影響を与えるのではないか?と。例えば、仕事の同僚と雑談することによって、雑談相手がどのように考え、どんな人かが分かるとする。仮にその相手から指示をされた場合に、それが不十分であった場合に、相手がどういう人かに基づいてその指示の不足を補うことができる。例えば、相手が忘れっぽいとか、言葉の定義があいまい、とかだったら、たぶんこれ忘れてるよな、とそれを勘定して、指示を遂行することができる。そうすることによって、仕事のパフォーマンスが下がらなくて済むのではないかと。これは逆に言うと、相手の指示をうまく受け取れないときや連携がうまくいかない場合に、雑談のようなコミュニケーションが足りないということなのかもしれない。
 
また人に何を教えるかについても同様とのこと。
つまり雑談によって、相手がどの程度の知識を持っていて、どのように物事を解釈するか、ということを知ることができる。そのため、相手にどの程度まで掘り下げて説明するべきかを判断する材料になるとのこと。

自分自身の経験を交えて話をしてくれましたが、確かに腑に落ちる内容で、僕自身もそういう視点で物事を見たことがなかったので、その点ちょっとクリアになりました。
 
これらの考え方を一般化して考えると、雑談することで得られる効用の一つは、「相手と自分をより差別化をする」ということなのかもしれませんね。それによって、その差があることを前提に相手とやり取りすることができるということです。


我雑談す ゆえに我あり

では、このような「雑談」ですが、なんで人って雑談しちゃうんでしょうか?意味不明ではありますが、例えば、「いわゆる効率が良い、雑談しない国」と「効率という意味では悪い(かもしれない)雑談する国」が戦ったらどっちが勝つだろうか?やっぱり雑談しない国は負けてしまうだろうという意見がほとんどということになりました(話の流れもあったので、もっと先にこの話題を出せばよかったとちょっと後悔…)。
 
先ほどの話題とつながってしまいますが、ではなぜ雑談しない国の方が負けてしまうと思うか考えてみました。
 
いくつかの意見のうち、特に「事実のみではなくて、解釈や予測不能性がその性質として重要だからなのではないか?」という意見がありました。例えば、AさんがBさんに話しかける時、「こんにちは、天気がいいですね」「そうですねー暑いですね」というやり取り交わされることは頻繁にあると思います。
 
一方で、その際に下記のようなやり取りを交わすこともあります。
A「こんにちは、天気がいいですね」
B「そうですねー暑いですね。お出かけですか?」
A「ちょっとそこまで」
 
このやり取りの中でAさんは一言目に発した天気の話題を起点として、二言目には、出かける先をBさんへお伝えする羽目になってしまいます。通常、誰かに声をかける時、僕らはある程度返答を予想して声掛けを行いますが、こういった形で頻繁に予想外、でも答えられる範囲で、のやり取りをすることがあります。これはBさんが質問をしたからですが、Aさんは初めからそれを予想していないわけです。
  
上記のようなやり取りは何を意味しているのでしょうか?ある参加者は、予想通り戻ってきたり、戻ってこないという経験を通して、予想の精度が高まるのではないかとのこと。それは先に述べた「他者と自分の間の差異を明確にする」ことによって、相手の思考を推し量りやすくなる、というか予想の精度が上がる、ということにも繋がるのではないかと思いました。それは、同胞の間でもしかり、敵国に対しても同様ではないかという。
 
その他、話題になったのは下記の内容です。
・雑談とは「ランダムに話題を投げて、こちらでどうなるか予想しながら様子を見る」こと。
・雑談ができるのも、ホモサピエンスゆえなのか。ホモ・サピエンスになる前にも雑談はあったのだろうか? 一方で、雑談がなくなると人類はほろびるのではないか?
・雑談の歴史(雑談史)なんてあるのだろうか?
・先進国と発展途上国で雑談の質や種類に違いはあるか?

ある企業の方がおっしゃっていて大変興味深かったのが、「ワークライフバランスにおいて、“ライフを充実させるためのワークの効率化”と“ワークを雑談を含めた形でやることによってライフの時間が侵食されてしまう”」という一見トレードオフになる関係をどう解消すべきか、といった論点。また、リモートワークしている会社も雑談は大事!ということは分かっているが、やり方が「ある時間の中で、その時には自由に話していいよ。」と言われるようなやり方であること。「雑談をしなさい。」と強要されて行う雑談は、そもそも雑談とは言えないのではないか、と。

今回のしゃべり場を開催して出た意見

・目の前のことで即座に判断することを求められる、現代の時間の流れの速さに疑問に思っている。一方で、ある人の行動や起こった現象を判断するためには、今の状況よりも、過去にさかのぼって、現在までにどのような軌跡をたどってきたのか、それをたどってくることで理解が容易である。ゆえに、原因となり得る過去のことをないがしろにしていると、その人や目の前の現象の本質をとらえることはできないのではないか。つまり今の時間軸ではそれはなかなか難しい。自分を周囲から断絶して、考える時間を持つことが大事なのかもしれない。

・昔の人の生き方から学べることはたくさんあるのではないか。時間に余裕がないと、雑談することはできないし、なにかを想像したり妄想したりすることくらいゆっくりしたいところ。
 
・ 対面でリアルなコミュニケーションしていると、そのことを相手と同じレベルまで深く考えてなくても、相手に合わせて話をしていくことができる。一方で、Onlineだと誰かが話している時は他の人はずっと聞くことができる。それはこれまで以上に考える時間を持つことができるということとポジティブに捉えることが可能。自分の中で考える時間を取ってから相手に話をするということができるという点で、従来の対面型のコミュニケーションとは異なるコミュニケーションのやり方であり、人との話し方が大きく変わるかもしれない。

おわりに

今回を終えて、これまでは「しゃべり場」とか言っていましたが、そもそもパクリなので、この会にもそろそろ名前を付けたいなと思いました。僕のnoteを見たある学生さんから「シグモイド会」ってどうですか?と提案されたので、即決でそれにしようと。
 
本名は自分なりには考えています。その名も、「シグモイド(曲線の立ち上がりを速くするのではなく、立ち上がるまでの地を這う時間を楽しむ)会」。長い!!けど理解できる人にとっては、分かりやすい感覚!
 
世の中には、アフターコロナ!ウィズコロナ!そこでは変化したものが生き残る!というような文言が溢れています。それはその通りだと思うのですが、人によってはこのような主張って、かなり脅迫的にも感じる人もいると思うのです。変化しないと死ぬよ、とか、変わらないと大変なことになるよ、といった感じで。
 
裏を返せばそれに窮屈さや違和感を感じる人は、自分の中に考える芯のようなものがあり、それが外圧によって揺さぶられることがあまり好きではないということなのかなと感じています。そういう人は自分自身が納得することが重要なのだと思うのです。上記のようなフレーズを聞いても、変わろうとするかどうかはその人次第が自分の中で決めるのだと思います。そういう人が集まって、まぁ役に立つかは知らんけど、正しいかどうかはとりあえず置いておいて、ざっくばらんに雑談しようぜ、という場としたいと思います。
 
科学的な裏付けがある何かを共有して、水戸黄門の印籠宜しく、それをみんなで拝むということが、シグモイドの立ち上がりだとすると、もっと悶々としたり、行ったり来たりしながら結論に至るまで(シグモイド曲線が地を這っている部分)のプロセスに光を当てて、その時間を共有したいなと思っています。ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる主人公の「モモ」のような存在でありたいなと僕自身が思っています。

このnoteを見て、面白そうと思った方、ぜひ話しましょう!立場も年齢も性別も関係なしです。むしろ違っていた方が面白そうですね。

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