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現実主義の落とし穴

※ 2022/12/6 excite blog より転載

昨日の宮崎は一日雨。道路の水たまりを眺めながらふと考えたこと。

水たまりの見方は人によって違う

ドイツ人とオーストリア人とスイス人。この隣国三国の国民気質を表す小話がある。

未舗装の道に水たまりがあった。路面に降ったり上から流れてきた雨水はできるだけ早く、短い距離で外に排水することが基本だ。集まった水が小さな川になって路盤を崩すことがあるし、湿気は草を生やしてやがて通行に支障をきたすからだ。

だから、この状態は問題なのだが…それぞれの国のエンジニアはどう考えるのか。

ドイツ人:これは問題だ。道づくりの理論が間違っているのではないだろうか。

オーストリア人:これは問題だ。設計が悪かったのではないか。

スイス人:これは問題だけど…とりあえず通行の安全性という目的には支障ないし、使えるからまあいいんじゃね?

これを、順に理想主義、合理主義、そして現実主義という。ものの例えなので、「そうとは限らない」とか真面目に深堀りする必要はないし、どれが優れているかという話もするつもりはないが、とても興味深い比較。

現実主義とはナイフリッジの上を歩くようなもの

私がスイス林業を紹介するときに、よく使うキーワードが「現実主義」だ。

時代によって価値観は変わっていくが、それに応じてニーズやマーケットが変わるので、社会のシステムを変えていかなければならない。彼らは、このシステム思考が実にうまい。世の中の状況に応じて、石橋を叩きながら慎重に慎重に変えていく。

何か具体的に先進的なことをしているわけではなく、だから目立たないけれど、いつの間にか生き延びている。近代から現代にかけて2度の大戦をうまくかわし、世界トップクラスのGDPはそうやって築かれてきた。

このナイフリッジの上を歩くような、柔軟さと慎重さの微妙なバランスが現実主義と表現されるわけだが、ただ世の中に流されてやっているわけではなく、そこには1本通ったものがある。それは「どんなに無様であっても生き延びること」であって、美しく散るといった発想はそこにはない。

スイス人たちのやっていることに "なんとなく感" がないのは、そういうことだ。

もっとも本人たちはこのことを自覚していない。発見したのは、私の近自然の師匠でありスイス在住の山脇さん。つまりガイジンだ。そういう指摘をされても、彼らはこれからもそういうことを発信しようとはしないだろう。生き延びるためには目立たないほうが良いことも多いからだ。

現実主義の弱点をどうカバーするか

現実主義にも弱点がある。それはリアリティを追求するが故にリスクのあるイノベーション(技術革新)が起きにくいことだ。ではどうすればよいのか。

スイスで傑出した起業家の多くはスイス人ではなく、大半は移民であることも知られている。アンリ・ネスレはドイツからの亡命者、スウォッチのニコラス・ハイエクはレバノン出身、テニスのロジャー・フェデラーの母親は南ア出身。

つまり、自分たちは出る杭にならずに、欠点は外からの血や投資で補い、成功者が築いた資源やインフラを国の富に…なんとしたたかなのだろうか。

そこには、生き延びるという目的の前には、体(てい)など些細なことという割り切りがあるように感じる。

日本人の "造り変える" ちから

ここで、気が付かれる方も多いだろう。日本人もたいがいではないか、と。

稲作を取り入れ、鉄砲の国産化に成功し、品質の良い自動車や機械をつくり、経済を発展させてきた。そして、ビーフカレーを食べ、毎年神社に初詣に行き、教会で結婚式を挙げ、クリスマスを祝い、死ぬとお寺に入って仏になる。

外から来たものを咀嚼して自分たちのものにしてしまう。芥川龍之介は「日本には造り変える力がある」と表現したが、昭和から平成にかけての繁栄の基礎にあったのは、まさにこれなのだろう。

なのに、なぜこの30年あまり、この国は衰退の一途をたどっているように見えるのだろうか。

無意識の忖度に要注意

造り変える力がある一方で、よく指摘されるのは、前提を変えない、聖域を作りたがるという癖(へき)だ。一度決まったことを頑なに変えないために、状況がどんどん悪くなり取り返しがつかなくなっていく。

変えられない原因のひとつに挙げられるのは、前例がないことをやると、前のやりかたを否定しているように捉えられてしまうのではないか、と思ってしまう心理で、これを無意識の忖度(そんたく)という。

実際にそうやっていればことを荒立てることがないので、一見無事に時が過ぎていくため、これが正解だと思うようになる。そしてこの "経験" があらゆる変革をを邪魔するようになる。

実は忖度される側(上司や先輩や祖先など)は、前例を変えてはいけないなどとは思っておらず、全体のために、あるいは君たちの時代に必要なことをやっていきなさい、と望んでいるかもしれない。そのギャップが状況をどんどん悪くしていくわけだ。

「何のために」がある人とない人

何のために、がないと無意識の忖度に陥る。右肩上がりの時代はそれでもよいけれど、停滞期ではジリ貧になっていく。

この行動の芯になるようなもの(一筋通った価値観)の無い状態を指して、三島由紀夫は「日本人はからっぽ」と言った。

SDGsとかダイバーシティというスローガン的なものに違和感を持っている人は、そういうところを見ているんだろうなと思う。

ただ、それはスローガンやそれらが持つ意義が悪いのではなく、価値観のない人が言っているからだと解釈したほうが、捉え方としては正しいような気がする。

想いと手法を混同しない

先人の想いというものはとても大事なもので、そこには様々な知見も蓄積されているかもしれない。でももっと大事なのは、今は経験も地位もないこれからの時代の人のはず。なぜならば、子孫繁栄はすべての生物の共通の目的だから。

今がうまく行っていないのならば、今と未来のために何かを変えなければならない。そのためにははしごの継ぎ足しではなく、一旦ゼロから考える必要がある。

想いが改革や改善の助けになるのなら積極的にバックアップすればよいし、足かせになるのならば新しい想いが必要なのかもしれない。

大事なのは想いと手法を混同しないことで、あたらしいやり方を考えるというのは、手法の議論をしているだけであって、想いを否定しているわけではない。このことを共有できるようになると、いろんなことが良い方に回っていくと思う。

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