理解から体感、分別から統合の時代へ。あるいは、語り得ぬことに沈黙したくない人へ。
こんにちは。榎本です。
「頭でわかる」ことと「実際できること」って全然違うって話多いですよね。
最近さらに、「頭でわかる」ことと「身体でわかる」ことも全然違う事例が多いなと思います。ティール組織、成人発達理論、愛、悟りとかはまさにそういった話なのかなと思います。
これについて今日は詳しく見ていきたいと思います。
「頭でわかる」と「身体でわかる」の事例
■ティール組織
両者とも同じようなことを言ってますが、賢者の言うことを表面的に受け取ると左のように受け取ってしまいます。
ティール組織の言うパーパスとはミッションではないです。ミッションはなにかマーケティング目的で、メンバーをコントロールしようとするエネルギーから作ろうとしている感じがありますが、パーパスとはただ聞こえてくるもので、ビジョンではなくコール(呼ばれている)であり、生まれてきた意味を生きているのか?という超越的なもの。
そのためティール組織を「採用広報」に使うことも違いますし、ティール組織は導入するものでなくただ組織がみんな心の声に従い、組織について対話を重ねていくうちにできあがるものです。
詳しくはこちら。
■愛
愛は無条件で結局はみんな1つと言いますが、しっかり理解できないと愛情と愛が混濁してしまいますし、それこそ頭でわかるだけになってしまいます。
■悟り
悟りも同じです。悟りは「良いもの」であり、悟りたいと思っているうちは悟ることができません。これもどうしても言葉ではうまく伝えられず、伝えようとすると表面的に誤解され、実は正反対の理解となってしまいます。
言葉で伝えようとしても伝わらないこと
こう見てみて不思議なのは、歴史や数学と違ってなぜか言葉で伝えようとすればするほど伝わらないという概念がこの世にはあるということです。
ウィトゲンシュタインはこれを「語りえぬもの」と呼びました。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
これは近代哲学までの実存主義的な、真理を求めるありかた全てについて終わりを告げ、形而上学の終わりとよく呼ばれております。
つまり、真理や神といったことは論理的にいくら考えても言葉で語ることなんてできないんだから、そんなことには沈黙するしかないよねということです。
目的と結果の切り分け
もう1つのポイントは、目的と結果を切り分けるということです。
例えば、利益というのは目的ではなくあくまで結果・条件です。
なぜなら企業は社会的文脈の上にあり、社会的な課題を何かしら解決するために存在しており、利益が「結果として」生まれ、これが継続の「条件」になるだけだからです。
これは言葉で伝わればわかる概念なので伝わりやすいかと思います。
しかし、上記の例のようにそもそも「目的」にすえることで目的が達成できない構造の問題が存在します。
人は科学などの分野でこの目的を設定し、分別していくことでかなりの発見をしてきましたが、今の時代はこの分別だけでは解決できない問題が多く残っている状態です。分別ではなく統合が必要なんです。
つまり、目的にすえるのではなく「結果として」そうなるしかないというものがあります。
身体性と修行
この問題への向き合い方は、過去人がどうやってこの問題と向き合ってきたか?を考えるのがいいと思います。
禅寺ではそれを修行と呼びます。
それは言葉や概念、観念や思考といった知性ではわからず、いくら偉い人の話を聞いても、経典をたくさん読んでも理解できることはないです。
なので、人はただ修行を通してそれを悟るしかありません。
それは答えが外にあるのでなく、あなたの内側にあるからです。
※ここではあえて修行について詳しく語りません。なぜなら詳しく知りたいと思うことが悟りを妨げるからであり、答えはあなたの内側にあるから教える必要がないからです。
大乗仏教と小乗仏教
仏教には大乗と小乗という流派があります。
「小乗」とは、小さな乗り物ということですから、
小乗仏教といわれるのは、
小さな乗り物のような仏教ということです。
なぜ小さな乗り物といわれるのかというと、
小乗仏教の場合は、出家した人は、
まず瞑想などの自分の修行をすることを優先して、
自分がさとりをひらくまでは他人を救おうとはしないからです。
「大乗」とは、大きな乗り物ということで、
すべての人が救われる教えを大乗仏教といいます。
「自利利他」の「利」とは幸せになることですから、
「自利利他」とは、自分が幸せになるままが他人も幸せになるということです。
分かりやすくいえば
儲かるとか得するということですから、
自分が儲かるままが、同時に他人が儲かることになる。
他人を儲けさせるままが自分の儲けになる、ということです。
小乗仏教でも、もちろん利他は教えられています。
小乗仏教の最高のさとりである阿羅漢のさとりを開いた人は、
人を救おうとします。
では、大乗仏教の自利利他とどこが違うのかというと、
大乗仏教の自利と利他は一体のもので、自分が幸せになると同時に他人も幸せになりますが、
小乗仏教の場合は、まず自分が幸せになってから、他人を幸せにしようとする点にあります。
この文章を読むと大乗仏教の方が優れているかのように聞こえますが、僕は小乗仏教を支持しております。
理由は、自分が悟っていない状態での救いは逆に上記の悟りを妨げる(自分は悟ったと頭でわからせるだけで勘違いさせる)ことにつながるからです。
またティール組織的に言うと、いくら伝えた人が悟っていてティールのパラダイムで伝えていても、受け手がオレンジパラダイムであればオレンジ的な考えで受け取ってしまいます。
語り得ぬことには沈黙するしかないのか?
ウィトゲンシュタインは徹底的に論理的に考えた結果、「語り得ぬことには沈黙するしかない」と述べました。
しかし現代には、2点勘違いがあります。
1.「言葉」「知性」の限界が示されただけであり、真理がない訳ではない。身体性を使うことで真理はわからなくても体感できる。
2.沈黙は言葉としてはしなくてはいけないだけで、感じることを分かち合うことはできる。
今後ますます「言葉」や「知性(分別)」主導の時代はおわり、「体感」や「統合」の時代がやってきます。
僕たちができることは沈黙以外にもきっとあります。
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