レズという言葉

 この間、大学でカミングアウトをした。自己紹介ならぬ「他己紹介」をするという課題で、ペアになったクラスメイトに自分の作品を見せていく中で、自分の作品は、私のアイデンティティの中でも特に、ゲイである、女の子が好きであるというところに深く根ざした、プライベートなものが多かったから、説明しておいた方がわかりやすいかと考えた。最初はゲイという言葉を使わずにいた。なんと言えばいいかわからなかった。カタカナ語を多用して難しい話のように思われても嫌だし、「衝撃の告白!」みたいにセンセーショナルに、今まで辛かっただろう、とか重苦しい話になるのも避けたかった。結局悩んだ末、「つまり、私レズだからさあ」と変に明るい声で言った。相手の顔は少しこわばった。「え、そうだったの、まじか」目線をそらして少し考えているようだった。「美大だし、そういう人多いよね、多分」


 二年生になって、セクシュアリティやジェンダーについての講義が開講されていたので取ってみた。小さめの教室は割と埋まっていて、他の授業と同じように友達同士で座る人、一人で座る人、様々いた。きっとこの中にも、セクシャルマイノリティと呼ばれる人たちがいるはずだ。逆にセクシャルマジョリティの人たちもたくさんいるだろう。大学の講義で「レズビアン」とか「LGBT」とかいう単語が出てくるなんて、しかもそれについてバカにすることばや批判的な言葉はなく、肯定的で、先進的な講義が行われて、それを若い学生がきくなんて、素晴らしいことだ。涙すら出てきた。今までの教育の中では、そんな言葉は教科書には出てこないし、逆に「異性に興味を持つのは自然なこと」とすら書かれていた。学校でも教師は知識が乏しく、「同性愛は性同一性障害という病気」と教えている人、「男二人でいちゃついてんじゃねえよ、気持ち悪いなあ」と笑う人までいた。でも大学はもっとアカデミックな場で、そして今は2017年で、世界も変わってきているんだ。教授は板書しながら言った。「LGBTというのは、レズ、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を取ったものです」私は自分の耳を疑った。レズ? レズという言葉は、「ホモ」や「おかま」のように差別的で侮蔑的な意味を持って使われてきた言葉だ。こういうアカデミックな場で使われるべきではないと思っていた私は頭が真っ白になった。そのあと、コメントペーパーに「レズという言葉は侮蔑的な意味合いで使われてきた言葉なのでこの場にはふさわしいと思いません」と書き込んで提出し、教室移動の途中で座り込んで泣いてしまった。なんでこんなことを教授に向けて書かなくちゃいけないんだろう。


 その一連の出来事を友人に話すと、「物事に敏感に反応してそれは差別だ、というのは自意識過剰だし被害者意識が強すぎる」「別にその文脈の中ではレズという言葉に侮蔑の意味は込められていないんだから」と言われてしまった。彼女は追い討ちをかけるように言う。「ただの言葉でしょ」私はそれ以上何も言わなかった。帰ってSNSを見ると、彼女が「私もそんな風に被害者意識が強すぎた時期があったが本当に愚かだった」と書いていた。今じゃなくてさっき言ってくればいいのに。彼女の声に共感するコメントがたくさんついていた。とりあえずログアウトしてそのまま寝た。
 あの教室の中に、セクシャルマイノリティと呼ばれるような人たちは一体何人ぐらいいたんだろう。何人ぐらい、レズビアンだ、と思っている人がいて、侮蔑の意味を込めた「レズ」という言葉を耳にした経験がある人は何人ぐらいいたんだろう。見えない人たちが傷ついていることに想像が及ばないというのは悲しい。そういう人たちが見えないことにして、「差別の意味はないからいいんだ」と言えてしまうその短絡的な思考にも虚しくなる。久しぶりにそのSNSにログインしてみたら彼女は彼女の考えを何日経っても主張し続けていた。被害者意識の強すぎる自意識過剰な反応は問題であり、そんな反応がいかに愚かで恥ずかしいかを書き連ねていた。彼女は「こんなの独り言なんだからあんたに言ってるわけじゃない」と言うだろうな、と思いながら、そのSNSを見るのをやめた。


 レズ、と自分を表現したことに、未だに私は自分で納得できていなくて、もっと正しい言い方があったはずだ、と考えている。でも「レズという言葉は侮蔑的な響きがあるからなるべく使わないほうがいい」と言って、面倒だなと思われるのか怖くて、それを訂正するどころか、レズという単語を多用している。課題でパートナーになった子は、それを全く気に留めない。私が「レズ」と言うことで嫌な気持ちになったり、嫌な記憶を思い出す人がクラスにいるのかもしれないと思いながらも、今日も変に裏返った明るい声で「私レズだから」と言う。コメントペーパーを提出したのに、ジェンダーセクシャリティの授業ではまた「レズ」という単語が使われていた。自分の目の前をブーメランがすごい速さで横切った時のように私は飛び上がりそうになった。でも黙っていた。コメントペーパーには一行だけ、「なぜこの授業では、レズという単語を使うんですか?」と書いた。またレズという単語が使われたら、もう授業を受けたくない。他己紹介課題に、「彼女はレズで、そのようなことについて作品を作っている」と書かれるのを想像した。セクシャルマイノリティと呼ばれる人たちが集まる場で、隣にいた若者とは言えない雰囲気の男性が「何故この会に参加されたんですか?ぼくは教育関係の仕事をしていて、それで友人に誘われて来てみたんですけど、あなたはアレですか、あの、レズとか」と聞いてきた時の、好奇心を丸出しにした、あのニヤニヤ笑った顔が思い出された。初めて「レズ」という言葉の響きについて実感したのはその時だった。
 「差別する意図がないから何を言っても構わない」という暴力的な意識はこれだけではなくてもちろん他にもたくさんの例がある。実際には、言葉の持つ差別的であったり侮蔑的である意味を知らないまま使っている人もいる。でもそう呼ばれた側がどう感じるか想像を働かせることは絶対に必要だ。被害者も加害者になり得るし、加害者も被害者になり得るということも想像力を働かせて考えて行くべきだなと強く感じた。鈍感になれば楽だ。何も考えなくていい。傷つかなくて済むし、相手が傷つこうと気づかなくて済む。でも鈍感でいたいとは思わない。クリエイターとして、人間として。

 大切な友達からの言葉。
 「あなたは大きな心を持ってる。大きな心を持っている人は一番傷つきやすいけど、世界は苦しくて辛い場所だ。それを無視したり、ましてや気づかないことが一番よくないことだからね」

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