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俳句チャンネル ~添削と推敲 編(その2)~

【はじめに】
この記事では、2021年4月15日に夏井いつき俳句チャンネルにアップされた動画『【はっきり言います!】上五の字余りを推奨しているわけではございません』を簡単に振り返っていきます。

ちなみに、実質的な「前の記事」にあたる『添削と推敲』についての記事はこちらからどうぞ(↓)

1.夏井先生は、上五字余りも破調も推奨してない

質問や指摘が来るたびに仕方なく答えているという質問「夏井先生は、プレバト!! の添削で良く使っている『上五字余り』や『破調(句またがり)』を推奨しているのですか?」について、動画のタイトルにわざわざ掲げる程、強く否定しています。

そして『添削と推敲』の違いの動画をおさらいしつつ、「プレバト!! のは添削であって、詠んだ人(芸能人)の言いたかったことを尊重した結果として『字余り/破調』になっているに過ぎない」と熱弁をふるっています。

◯「添削」
  あくまでもご本人が書きたかったことに言葉を『寄せていく』作業

△「改作」
  「ご本人が書きたかった」を無視すると、作り変え:改作になる
  → これは詠んだ人も納得感が低く、皆が不幸になる(正人さん談)

「プレバト!!」で先生がやっていることは、まさに「添削」です。そして、

夏井
「今まで私、作者が言おうとしたことと違うものにしてしまうことは、ほぼ無かったと思うんですよ。ただ、作者が書いたものは、ここにあるけれど、書いたものと作者の言いたいことが全然違うやん、というのが時々ある。 特に、『最下位・才能ナシ5点』とか。
 字面をとことん全部変えないと貴方の言いたいことにならないでしょ? っていう時は、相当変えることがある。」

と発言されています。(そうした事例については、下の記事をご覧下さい)

2.上五字余りの多用は、作者の意図を尊重するから

まだ俳句を勉強していない(平場の)出演者が、特に番組初期に良く言ったというのが、「全部入れたいです」という要望だそうです。

俳句を勉強していないのだし、当然、自分の言いたいことと「書かれている文字面」にギャップが生じてしまうことはあるかと思います。

そうした作品を添削(=言葉を寄せる作業)する際に、例えば、「この一単語諦めてさえくれれば、キレイに五七五の定型に収まるのに!」と夏井先生は考えていることが多いのだそうです。

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一単語削ってキレイに五七五の定型に収める「手直し」をした後に、作者が『全部入れたかった』と言い張られると、夏井先生も癪(しゃく)だということで、敢えて(変になったり、破綻することを示す意味も込めて)作者の言いたかったことを『全部』入れた添削例を提示することもあるんだそう。

・目移りはすれど家電は白ぞ春 (21/03/18)
 → 作者の言いたいことに近づけた所で呟きにしか過ぎない
・花粉症の顔もリュックも同じ赤(21/04/15)
 → (添削したところで、)俳句の詩情や詩の心は一切ありません

丁度そうして「添削した(作者の言いたい事に近づけた)ところで」と前置きをしていたケースもここ最近ありましたね。

そして、ここまでの議論で大事になってくるのが、作者の意図の部分です。「『作者が全部入れたい』と言うのなら、」という前提のもと、夏井先生は「『作者が全部入れたい』と言うのなら、もう上五字余りにするしかない」という最後の手段としてやっているに過ぎないのです。

夏井先生が「上五字余りを推奨」しているのではなく、渋々といいますか、作者がそう言うなら「添削」を求められている以上、「他に選択肢はない」という極めて消極的な手札選びの中で『少しでも俳句の技法として認められている』ものを選ぼうとしている“苦肉の策(苦渋の選択)”なのです。

その苦渋の選択を頻繁に迫られる状況にあるバラエティ番組だということを理解していない人が、(やれ推奨だの積極的に多用しているだの)言うのでしょう。

3.「ストーリーを書きたいタイプの人」もなりがち

「全部入れたい」タイプに類するのが、「ストーリーを書きたいタイプ」の参加者の方々です。これは作者によってタイプが異なるんですが、例えば、特待生級でも「ストーリーを書きたいタイプ」は何人かいらっしゃいます。

それが連続したのが、2021年「春光戦」の予選Bブロックでした。

2021年「春光戦」予選Bブロック
・ウニ二貫お先にどうぞと古女房/武田鉄矢
 → 「お先にどうぞ」と女房分け合ふ海胆二貫(8・7・5)

・春の闇洗う寿司桶荼毘し祖母/篠田麻里子
 → 寿司桶洗う祖母を荼毘せし夜の春(7・7・5)

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夏井「俳句ってたった17音しかないから、ストーリーを綿々と書くというのには全く向かない。

当たり前のことなのですが、どうしても「思いが強い」人は、俳句という器で俳句のキャパシティ以上の物事を表現しようとしてしまうのです。これに対して、夏井先生は、

夏井「『( ストーリー )が全部書きたいのです!』って言うんだったら、それは貴方、短歌にするとか詩にするとか小説にするとか……そうしなさいって私はオススメはするんですが、それでも俳句にしたいと言い張られたら上五字余りにするしかないですね、って。」

俳句(17音)という器に、明らかにあふれるような分量を入れてしまいがちな職種に「小説家」の方々がいるという話しは、こちらの記事でもお話しをした通りなんですが、(↓)

「伝えたい情報」がある時に、その情報量が、果たして「俳句に適しているだろうか」という視点を持つことは重要だなと改めて感じました。

流石に、「プレバト!!」の俳句査定コーナーにオファーを受けて、あの舞台で「短歌」を投稿しても採用されることは無いでしょうww

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しかし、皆さん(このnoteを見ている主に一般層)は、「俳句」に限らず、「短歌」や「詩」や、或いは「Twitter」や「note」など様々なコンテンツで発信をすることが出来るはずです。

皆さんは、伝えたいことを適した情報量で届けられるはずですから、もっと柔軟に「表現の場」を選んだら良い、逆に「俳句という表現の場に適した」ものを選ぶというのも大事ではないかと思います。

4.「破調(句またがり)」も全く一緒

そして、全く同じことを「破調(句またがり)」でも夏井先生は言われ続けているようです。これも五七五の定型に収まらない「長い単語」だったりをどうしても読み込みたかったりするからでしょう。

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「破調」(恐らくは、句またがりのことなどを指していると思われます)が多いのも、「無理やり定型に収めた」芸能人の俳句を、素直な日本語にしたら結果的に「句またがり」になったとか、それぐらいのことだと思います。

5.夏井いつきの句集で確認しろ!(高浜虚子のひ孫弟子だぞ!)

ここまで熱弁をしてきても、まだ信じてない方がいらっしゃると思います。そうした方に対して、夏井先生は、「私の句集を買って読め!」と言い放ちます。

(宣伝:夏井&カンパニーのホームページにリンクを貼らせてもらいます)

そして、動画の中では、夏井いつきの「師系」にも触れていまして、

「夏井いつき」の師匠は「黒田杏子(くろだ・ももこ)」
 ……「白葱のひかりの棒をいま刻む」

「黒田杏子」の師匠は「山口青邨(やまぐち・せいそん)」
 ……「みちのくの町はいぶせき氷柱かな」

「山口青邨」の師匠は「高浜虚子(たかはま・きょし)」
 ……「遠山に日の当たりたる枯野かな」

つまり師匠の系譜を辿っていくと、夏井いつきの3代前は高浜虚子であり、高浜虚子から見て夏井いつきは「ひ孫弟子」に当たるのだと。

(高浜虚子)作家評
子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。
また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。
そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。

こんな俳句史に名を残す人物の系譜を引いているのですから、当然のごとく五七五の有季定型を好んでいる訳です。動画内では、

夏井いつき
「私自身はもちろん自分の表現したいものに対して、韻律も表記も文体も選ぶ立場ではおりますが、基本的には有季定型派の俳人でございますので、夏井いつきは上五字余りが好きだとか破調が好きだとかそういう風におっしゃる方は、私の句集を2冊買っていただいて是非熟読していただきたいと強くお薦め致します。」

家藤正人
「この語気の強さが、隣からビンビンバシバシ伝わってくるんですけれども(苦笑)」

と纏められるほどでした(苦笑)


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