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日本の歌、10年で2曲ずつ選んでみた【1900~1950年代】

続編となる『日本の歌、10年で2曲ずつ選んでみた【1960~2010年代】』は、こちらからどうぞ。(↓)

【はじめに】

私はどちらかと言うと洋楽よりも邦楽が好きです。時代を問わず好きです。音楽好きなクイズ好きなので、クイズを作る時もついつい音楽に関する問題がパッとひらめいてしまいます。題材になるのが「自分の好きな曲」に、どうしてもなってしまいがちなことについては些か自覚があります。

毎週末「クイズスレ」で(主に好きな曲について)出題してきたのですが、とある(音楽好きの)参加者の方から、

『Rxさんの音楽のカバー範囲広すぎ問題もあるぞ(略)対策に困ります』

という言葉を頂いたことがありました。ここでの「カバー範囲」というのは『時代』(1960年代のGSから2000年代のアニソンを出題したことを受け)として捉えて頂ければと思います。

じゃあ、クイズの対策に特化されると、私としては少しサミシイのですが、ひとまず「日本の音楽」の流れを知ってもらうことは、決してマイナスの事じゃないだろうと思い、今回の記事を作りました。

題して、『日本の歌、10年で2曲ずつ選んでみた』です。

・売上などを最も伸ばした楽曲
   もしくは、
・時代の変遷を把握する上で重要だったり、時代を代表する楽曲

にフォーカスして選んだつもりですので、ぜひ皆さん、日本の音楽の流れを把握する上での道標にしていただければと思います。

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どこから始めるかって?1900年からです。「昭和」とかじゃありませんよ、「明治時代」からです。では、タイムスリップにお付き合い下さい。

1900年代(1)『荒城の月』

1900年に川上音二郎一座がパリ万博で初めてレコードへの吹き込みを行ったとされる この頃、この人が脚光を浴びます。そう【滝廉太郎】さんです。

明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていた。

そうした機運の高まる中【瀧廉太郎】は、
・1900年:『花』、中学唱歌:『箱根八里』、『荒城の月』
・1901年:幼稚園唱歌:『お正月』 など
を僅か2年のうちに立て続けに発表。  特に、↓

『荒城の月』は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。哀調をおびたメロディと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。特に、日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされ、日本の歴史的に重要な曲である。
1901年(明治34年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲した。原曲は無伴奏の歌曲であった。
日本における曲では、これまでの四七抜き音階の日本の旋律ではなく、創めて西洋音楽の旋律を大衆に押し広げた歴史的な歌曲である。

120年経ても色褪せぬ楽曲達。夭逝の天才によって20世紀の幕が開きます。

1900年代(2)『鉄道唱歌』

じゃあもう1曲をこの時代から選ぶとしたら何か。音楽の授業で歌われる様な格調高い唱歌とは違った路線からチョイスしました。
ただこれも、地理の授業で歌われる事を目論んだ1曲だったんだそうです。

第1集東海道編第1番の歌詞である、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり……」は広く知られている。……。1900年5月10日に第1集東海道篇を発売。

基本的にメロディーで歌えることまおり、今でも親しまれている鉄道唱歌。
実は昭和に入るあたりまで、「売上」といえば『書籍』『楽譜』等でして、一説には書籍が2,000万部を売り上げたとの逸話も残されるほどの人気(1900年代初頭を代表する全国的なご当地ソング)を博しました。

1910年代(1)『ふるさと』

1900年代の2曲は、どちらも1900年頃でした。それから10年以上、目立ったヒット曲はなく、1910年代、大正時代へと入ります。
続いて、1910年代として紹介する2曲も、実は(偶然ですが、)同じ1914年の楽曲です。

1910年代の前半に、いわゆる『文部省唱歌』が量産される訳ですが、その中でも、というか全童謡・唱歌でも屈指の人気を誇る曲が生まれています。

故郷(ふるさと)は、高野辰之作詞・岡野貞一作曲による文部省唱歌。
・1914年(大正3年)の尋常小学唱歌の第六学年用で発表された。

普通の皆さんは、古くから親しまれている『ふるさと』……に限らず、童謡などが“いつの時代に出来たものか”を全く意識しないと思います。
もちろん意識させないくらい、我々に根付いているのでしょうが、お暇な時にでも、『どういう時代に、どういう経緯で作られたのか』を調べてみるのも、新しい発見があって面白いかも知れませんよ?

ここまで「唱歌」ばかりをご紹介してきましたが、いよいよ『流行歌』の先駆けとも言えるこの曲の時代が来ます。もう1曲の1914年の楽曲。

1910年代(2)『カチューシャの唄』

1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲、ならびに同楽曲を題材にした同年製作・公開の日本の短篇映画。
楽曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。劇団芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。……歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。

極めて今風に言い換えれば、ドラマなりの「挿入歌」として、主演女優さんが歌って大ヒット、歌詞からのフレーズが「新語・流行語大賞」に入った、的なムーブメントなのだと思います。
ただ、これの凄いところは、21世紀の現代なら当たり前なヒットの構図が、100年以上前に出来上がっていたところでしょう。その売れ方がこちら。↓

・蓄音機自体が高価で普及率が低く、数千枚売れれば大当たりと言われた当時でも2万枚以上を売り上げたという説もある。
・楽譜や歌本はレコードよりも安価であったことから、1914年9月段階で楽譜は7万8000部売れ『鉄道唱歌』以来の売れ行きとなり、赤本や歌本も含めると総発行部数は14〜5万部に達する勢いであると『読売新聞』1914年9月13日付で報じられた。

まあ、オリジナル歌唱を聞くと、『えっ、何これ……』って言う風に、現代の我々はついつい感じてしまいがちですが、明治維新から数えて50年弱で、今から120年近く前の日本人にとって相当『新鮮』だったのだと思います。

この『カチューシャの唄』を「日本の流行歌の第1号」と捉えるむきもあります。翌年に発表された『ゴンドラの唄』も連れてヒットしましたが、その後はヒットが連鎖していった訳ではなく、やや一過性の印象を受けます。
(※)もちろん、浅草オペラ(コロッケの歌)や、『東京節』『復興節』に『船頭小唄』などのヒット曲自体はありますが、連続性には欠ける印象。

1920年代(1)『赤とんぼ』

(第一次)世界大戦後、大正デモクラシーから関東大震災を経て、大正から昭和への分岐点となる1920年代。
1910年代の終わりに児童雑誌『赤い鳥』が創刊されるなど、唱歌というより「童謡」と認識する名曲が多数生み出された1920年代。1曲挙げるとすれば『赤とんぼ』ではないでしょうか。

三木露風の作詞、山田耕筰の作曲による、日本の代表的な童謡の一つである。夕暮れ時に赤とんぼを見て、昔を懐かしく思い出すという、郷愁にあふれた歌詞である。
三木露風が1921年(大正10年)に、故郷である兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれ、同年8月に『樫の実』に最初に発表した。その後、12月に童謡集『真珠島』で一部修正する。この詩に、1927年(昭和2年)、山田耕筰が曲をつけた。

大正時代に作られた歌詞に、昭和に入って曲が付けられる。今では、あまり馴染みがないですが、当時は、こういった流れが比較的見受けられました。

しかし、昭和(1920年代後半)になると状況が一変します。
1925年に本放送が始まった「ラジオ」、そして「レコード」の普及によって『アラビヤの唄』『(私の)青空』『君恋し』『波浮の港』『蒲田行進曲』などのヒット曲が連発するようになったのです。

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アメリカなどでヒットしている曲を日本に持ち込んで歌った『和製ジャズ』の流れが、国産の音楽にも大きく影響を及ぼすようになる中、1929年5月、日本の映画タイアップ最初期のヒットソングが登場します。

1920年代(2)『東京行進曲』

作詞西條八十、作曲中山晋平、唄佐藤千夜子。
日本の映画主題歌(映画とタイアップした曲)の第1号。
映画公開の1か月前、1929年(昭和4年)5月1日にビクターレコードから発売され、25万枚を売り上げた。

1930年をもってイタリアに渡ったことで日本音楽界の一線から退いたこともあって、顧みられることは少ないですが、1977年にはNHK朝ドラで描かれるなど、【佐藤千夜子】さんは、『昭和最初期の歌姫』として歴史に名を残しています。

【佐藤千夜子】さんは「作詞:野口雨情or西條八十」に「作曲:中山晋平」という制作陣でヒット曲を連発しましたが、1930年に入ると、マンドリン・ギター演奏家という存在だった【古賀政男(古賀正男)】の『影を慕いて』という楽曲を歌います。
佐藤千夜子の歌唱したバージョンはあまりヒットしませんでしたが、のちに国民栄誉賞を受賞する大作曲家・古賀政男の最初期の傑作です。

1930年代(1)『酒は涙か溜息か』

作曲家【古賀政男】がプロ作曲家となり出会ったのが、こちらも国民栄誉賞を受賞することとなる昭和の大歌手【藤山一郎】でした。

先ほど出た『影を慕いて』のカバーや、『丘を越えて』で注目されますが、藤山・古賀コンビで最大のヒットを記録したのが『酒は涙か溜息か』です。

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1931年(昭和6年)9月に日本コロムビアから藤山一郎の歌唱によって発売された昭和歌謡である。
作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、歌手・藤山一郎の出世作となった大ヒット曲。また、日本で最初にクルーナー唱法を取り入れた作品としても知られる。
当時、古賀は新進作曲家として注目されはじめたばかりで、高橋は北海道で地方新聞の記者、藤山一郎は東京音楽学校に在籍し将来を嘱望されたクラシック音楽生だった。
折からの世界恐慌による不況にも拘らず、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍のセールスを記録したという。売上は80万枚。

1930年代は『レコード歌謡』が一気に花開き、レコード会社ごとの人気歌手・作詞・作曲家たちがヒットを重ねていきました(戦前歌謡)。

1930年代(2)『東京音頭』

もう一つ。『新民謡』と呼ばれるジャンルが昭和前半に存在していました。今で言う『ご当地ソング(CM)』に近いもので、局所的なヒットに終わるものが大半を占める中、全国的な人気を博したのが、関東大震災から10年、世界第2位の大都市に復興を遂げた「東京市」の『東京音頭』です。

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作詞西條八十、作曲中山晋平。
盆踊りの定番曲として親しまれ、また東京ヤクルトスワローズやFC東京の応援歌として使われていることでも知られている。

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東京の見どころを歌った「東京音頭」は東京復興および経済振興の歌として受容され、東京だけでなく全国でヒットし、レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚に達したという。
その後も時代を越えたロングヒットとなり、総売上枚数は正確には不明であるが、1971年の段階で発売当時の20倍以上、枚数にして2000万枚以上を売り上げているともいわれる。

1930年代に繁栄を極めた『流行歌』も少しずつ「軍国主義」の色を濃くし、後半になると『軍国歌謡』『戦時歌謡』または『軍歌』が増えていきます。(それぞれの違いなどについては『流行歌』のページを参照)

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終戦の年、東京大空襲の翌4月にはレコード新譜の製造が困難となります。そして、1945年夏をもって終戦。1945年秋以降の楽曲たちを『戦後歌謡』と呼ぶことも多くありますが、その代表的な楽曲を2曲ご紹介しましょう。

1940年代(1)『リンゴの唄』

まずは、言わずと知られた『リンゴの唄』。終戦を印象づける楽曲として、テレビでも頻繁に流れますよね。終戦から半年足らずでのヒット曲です。

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1945年の日本の楽曲。並木路子、霧島昇(霧島の共唱はオリジナル版のみ)によって発売され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。
第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月11日公開、松竹大船)の主題歌及び挿入歌として発表された。
可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった。
レコード売上には諸説あるが、1947年末までの2年間に12万5000枚を売り上げたという記事があり、レコード業界が非常な苦境にあった当時としては驚異的な大ヒットであったと考えられる。

ちなみに、終戦の年の「大晦日」に放送されたのが、『NHK紅白歌合戦』の前身番組(紅白音楽試合)。その中でも、この『リンゴの唄』は歌唱されたとの記録が残されています。

1940年代(2)『東京ブギウギ』

生活苦しい時代、『リンゴの唄』とは違った形で「戦後」を強く印象づけたのが『ブギの女王』こと【笠置シズ子】の代表曲『東京ブギウギ』です。

鈴木勝の作詞、服部良一の作曲、笠置シヅ子の歌唱により、1947年発表(ただしレコード発売は翌年1月)されてヒットしたブギのリズムによる日本の歌謡曲であり、「青い山脈」「リンゴの唄」などと並んで、戦後の日本を象徴する曲として有名である。
当時、歌手は直立不動で歌うのが通例であったが、笠置は舞台上をダイナミックに動き回りながら歌い踊っており、その姿は戦後の解放的な気分の反映であるとされた。

そんな『笠置シズ子』の物真似で注目を集める小学生の天才少女が1950年代以降の日本の歌謡界を牽引していきます。そう、【美空ひばり】です。

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1950年代(1)『リンゴ追分』

戦後、当時の一流女性歌手をうまく取り入れた子役歌手として逸話に溢れ、1949年に小学生にして映画・歌手デビュー。
 ・1949年:悲しき口笛(当時・約45万枚)
 ・1950年:東京キッド
と、立て続けにヒットを飛ばすと、1950年代の【美空ひばり】楽曲の中でもトップクラスのヒットとなったのが、1952年の『リンゴ追分』です。
 ・1952年:リンゴ追分(当時・約70万枚)

元々は、1952年4月にラジオ東京(現TBSラジオ)の開局を記念して放送されたラジオドラマ『リンゴ園の少女』の挿入歌として製作され、同年11月に『リンゴ園の少女』が当時15歳だったひばりの主演によって映画化された際にも、本楽曲が主題歌として使用された。
当時としては戦後最大の売り上げとなる70万枚を売り上げ、最終的には130万枚の売り上げを記録するミリオンセラーとなった。

1950年代(2)『古城』

戦後の歌謡界を引っ張った歌手は数多いますが、その中でも、男性の代表格と言えば、【三橋美智也】さんでしょう。この方も多くの逸話があります。

民謡で鍛えた伸びやかな高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、昭和30年代の日本の歌謡界黄金期をリードし、数多くのミリオンセラーを連発した、昭和歌謡界を代表する男性歌手の一人。特に全盛期の昭和30年代前半は「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を誇った。
1983年には日本の歌手として史上初めてレコードのプレス枚数が1億枚を突破する記録を打ち立て、生涯のレコード売上は1億600万枚となった。

そんな、ミリオンヒット30曲と言われる三橋美智也の中でも、民謡・歌謡曲を合わせて最大のヒットとされるのが、1959年の『古城』です。

1959年7月にリリースされた三橋美智也のシングル。売り上げは約300万枚ともいわれるほどの大ヒットを記録し、数ある三橋のヒット曲の中でも最大の売り上げとなった。

実は、『日本の心』だ、などと言われる『演歌』というジャンルの原型が、歌謡曲の中で育ち始めたのは、昭和30年代になってからなのです。
(ここまで紹介してきた楽曲の中で、“演歌”として思い浮かべる曲調の楽曲は殆ど無かった様に感じます)

戦後から高度経済成長時代に突入する昭和30年代、少しずつ現代の人々が「昭和のヒット曲」と認識する時代に近づいて参ります。
あるいは、ヒットチャートとして「オリコンチャート」もスタートします。

しかし、その前にも少なくとも半世紀、日本の流行歌の歴史が積み重ねられてきたことを改めて認識するキッカケにしてもらえれば嬉しいです。それではまたこの続き、或いは別の記事でお会いしましょう。Rxでした。


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