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わたしたちは単にバラバラであったりバラバラになったりする。(「平面的な世界、断片的な部屋」についての断片)

※この記事は、平面的な世界、断片的な部屋についてエンニュイのドラマトゥルクを担当している青木省二氏が寄稿してくれました。

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初演(ロングバージョン)のダイジェスト映像↓



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芝居の最中に地震が起きて、この舞台上に溢れるナルシズムを破壊してくれればいいのに、と願うことがある。言うまでもなくこの願いが可能なのは、都市の劇場がそんなヤワに作られていないからだ。破壊するのは人間の命でも劇場という財でもなく、たったちっぽけなナルシズムに限られるからであり、そこにあるのが世界を救う戦士であろうが西洋を模した異世界の戦場であろうが、あまつさえ誰かがドラマチックに死んでしまおうが、ここが公園の砂場に過ぎないことを暴露するメカニズムが演劇にはある。こうやって切り取ってしまうのは意地悪だし、捻くれてるな、と我ながら思う。恐らく想像力の欠如の末にこの願いはある。しかし他方で、もっと深い違和感、居心地の悪さもそこにはある。

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「平面的な世界、断片的な部屋 いわき総合高校ver.」はいわき総合高校の第16期生卒業公演で行われた演目でした。こう言いきってしまうのは気が引けるところもありますが、いわきの生徒さんたちは震災被害者であり、第10期の飴屋法水さんの「ブルーシート」ではそれが正面から扱われ、第58回岸田國士戯曲賞を受賞しました。これは演劇史的事件として記憶されています。
16期の生徒さんは、ブルーシートの10期の生徒さんとは違い、震災から十年近く経って(高校生の十年はあまりにも長い)震災を忘却しつつある彼女/彼ら(この二分法に当てはまらない生徒さんもおられたかもしれませんがそれは判りません)でした。震災によってバラバラになったものがすっかり生活の中に溶け込んでしまって、それがもう分離できないものとなった後の彼女/彼らだということも出来ます。
彼女/彼らのバラバラの断片を集め、ギリギリのエッジに立った本作は、控えめに言ってもとてつもない力を持っており、本番を観ている最中、揺さぶられない様に必死だったことを憶えています。

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演劇のあまり省みられない特徴として、舞台上にいる人物たちが親しさの中にある様な錯覚が生じる、というものがある。バラバラの場で起きている複数のシーンがあったとしても、その人物たちが(他人であるにもかかわらず)実は家族なんじゃないか、と関係妄想してしまうことが、演劇だとあり得てしまうほどだ。
宮藤官九郎のドラマでは、チーマーであろうが、フリーターであろうが、人間国宝であろうが、トレンディ俳優であろうが、おしなべて等価に扱われる。上下関係の力学や互いが他者であるという感性があの世界にはないのだ。これは映像の感覚というよりは演劇の感覚から来ているものに思える。演劇にあるメディアの性質を、映像の物語構造に組み込んだのだ。
あの世界は一種の嘘であることは明らか(人物は全て宮藤官九郎の分身で、そうすることで意識的に作られた理想郷でもあることが劇中でしばしば自己言及もされる)で、実際、あんな美しいリアリティはそうそうあるものではない。認知症の父親が若者言葉を使って、息子と友だちの様な関係を結んだりは出来ない。出来たとしても、あれほど容易な道のりではないだろう。
いわきの彼女/彼らが実際にどの程度の親密さだったのか、本当のところは判らない。
しかし、舞台上で起きる親密さへの錯覚と、バラバラになってしまう現実、また否が応でも卒業が訪れる寂しさや、これからの生活への不安、容易に予想できる挫折、社会へ飛び出さなければいけない恐怖に、舞台上にいるあの瞬間だけは、さらされなければならなかった。
劇中に「いつまでもずっとみんなと一緒にいたい」というありきたりな台詞があったのだが、それがとてつもない力と、嫌味なほどのきらびやかさをたたえてしまったのはそういう訳だと感じた。

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「平面的な世界、断片的な部屋」は、ズビグニュー・リプチンスキーの「タンゴ」という作品を参考にしている。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm6039962



断片的な部屋、というモチーフは本作のイメージから借用している。
この映像作品では、時間もバラバラで、関係性も示されない人物たちが、場所だけを共有して、性も犯罪も暴力も生活も排泄も並行して運動する。複数のものの並行運動を撮ることは、映像のセオリーとしては飽くまで技術的な範疇に入る。しかしこの作品には、それの裏を掻いた、演劇的な力を用いたところに特徴がある。あの映像には第四の壁がある(寧ろ「ない」というのが正しいのかもしれないが)。

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池袋ポップアップ劇場で行われた「平面的な世界、断片的な部屋 2022」に登場する人物たちは、いわき総合高校ver.とは違って、互いのことを知らない個人である。
繰り返されるある数分の中で、ファミレスにやってきた4名+店員1名の、かたわらから見ると滑稽だが、本人たちにとっては切実な挫折が描かれる。
これからバラバラになってしまうものがそれを突きつけられることと、もともとバラバラなものたちにある種の親密さが錯覚されることは、真逆のニュアンスを持っている。それぞれが何者かを知らないこの人物たちの運動は、ただ観客の視線のみ内側へ向かせる。
※有名な例で言うと、ドリフターズの、志村うしろ、と同じで、観客以外に彼/彼女らの背後は見えない。
観客の方々においては、他人への想像力を喚起されれば、この上ない僥倖である。

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魔除けの御札とお守りを買いたいと思っている。私の借りているマンションの一室は、改築に次ぐ改築の結果にいくつもの矛盾が生じて様々な箇所に欠陥があり、自室のドアに至っては半開きのまま締まらない構造になっている。半開きのまま締まらないのなら魔除けの札、お守りの類を表にぺたぺた貼っておけば、精神的な忌避感、開けてはいけない感が生じるはずだ。
それにしても人間には、「魔」というか「星」みたいなものがあるなと思う。エモーショナルなことばかり起きる人もいれば、日々切ない体験、激しいスラップスティックを体験する人もいる。自分はちょっとした嫌なこと(と浅黒いおじさん)ばかり引き寄せてしまうクチ(星)だ。運がいいとか悪いとか、個性だとか、それはお前が無意識に突っ込んでいってるんだ、みたいな説もあるが、そんな説明可能なものとは違う、どうしようもない、個人の無意識よりももっと奥にある、もっと得体のしれない世界が、それぞれにはある気がしてならない。それがレイヤー化されているのが僕たちの社会であるとしか思えないのだ。

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本作では、ファミレスの光景がローストチキンの蓋みたいにぱかっと開き、突然朝の薄暗さにさらされる瞬間、にもかかわらず決して彼/彼女らがどこへも行けないことを明らかにします。それは演劇には内向きにこそ力は働くが、外へは働かないからです。「地獄の黙示録」の様に物語が、目的地と同じ方向にズイズイと進んでいくあの遠心力は映画の力学であり、演劇の場合はその力は真逆に生じます。
そしてわたしたち人間は、単にバラバラであったりバラバラになったりしますが、必ずしもそうとも言えない、弱く繋がっているかの様に見える彼/彼女らが描かれます。これは演劇そのものの力です。


青木省二

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次回公演

10/8-9
青森県八戸のパフォーマンスイベント「横丁オンリーユーシアター」

出演
市川フー
浦田すみれ
zzzpeaker
高畑陸
二田絢乃
長谷川優貴

中村理

エンニュイゆかりのメンバーとダンサーの中村理さんのユニットで酒蔵を舞台に演劇とダンスの境ようなパフォーマンスをします!


そして、次回本公演は 11/25-27 !!

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