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普通の人の凡庸の演劇について(「無表情な日常、感情的な毎秒」予習編)

※この記事は、エンニュイのドラマトゥルクを担当している青木省二氏が寄稿してくれました。




「無表情な日常、感情的な毎秒」は、普通の人のお話です。普通の人とは、小さな挫折を繰り返しながら一日一日死んでいく人たち、つまり生きている人間全てのこととも言えます。

普通の人は言葉に回収されません。と言うより、言葉を与えた瞬間に人は演じることを求められ、普通の人でなくなります。「主人公」とか「恋人」とか「王様」とか。このパワーたるやすごいものがあります。あなた王様、と言われた途端に人は王様の様に振る舞ってしまうのですから。

あたりまえながら、そのパワーに身を委ねることこそが演劇の基本のキであり、最も重要な遊びでも、政治でもあります。しかし本公演ではそのパワーでないものを模索していた様な気がします。

この12ヶ月連続公演、特に最後の方は、「現代口語演劇」的と評されることが多かったです。
「現代口語演劇」とは劇作家の平田オリザさんが提唱した、リアルな演劇を作る為の方法を追求した演劇論です。決して劇的じゃない普通の日常の中にドラマチックを見出し、日本語の特徴を活かしたリアルなセリフや、セリフとセリフの「間」をシビアにコントロールすることで、海外から輸入されたものであった演劇を再構築しようと試みました。

確かに、本公演はなんだかこれに近づこうとしている様にも見えるかもしれませんし、そもそも日本の演劇の中に現代口語演劇は深く入り込んでいるので、全く現代口語演劇でないかと言われれば否定できません。
とは言うものの、主宰の長谷川はお笑い芸人であるので直接的な影響はほぼなく、実際、12ヶ月連続公演は現代口語演劇とはかなり異なったアプローチによって生まれたものでした。

もっと言うと結果として、「現代」というものにも「口語」というものにも、距離を置く様なクリエイションを志向していたと思います。「現代」という時間的な幅広さや普遍性、「口語」という身体性や一貫性の力は、本公演で目指すものではない力によって生じるものであるからです。

その為に今回採用したルールはこの様なものです。
・クリエイションメンバーは挙手制(逆オファー)。出たい、と言った人は絶対に出す。
・前回のクリエイションを元に今回のクリエイションをする。
・感覚的なものを引き出す為に、いきあたりばったりで考える。
・演出は「しなければならない」を言わない。「してはならない」も劇の成立ギリギリまで俳優から出てきたもの優先する為、極力言わない。

クリエイションメンバーはアルバイトのシフトの様に決定され、戯曲ではなく前回までのクリエイションだけを参考にすることで曖昧さを残し、全員で作品を作っていく為に具体的な方向性は決めない、というのが原則でした。(具体的な方法については別の機会に書くことになるかもしれません。)

要は、いい加減さ、を志向していたと言えます。いい加減さをもってしてでないと、「言葉→演じる」の力が生まれてしまうし、そうしないことには激変する時代の転換期に応答することは難しいと考えました。
いい加減で、かつ驚くほどに精密な「瞬間の感覚」を生えるがままに生やしていくべく、クリエイション全体にもある種のいい加減さを導入する必要があったからです。

他方で「いい加減さ」はその性質上、取り扱いが難しく、「いい加減さ」が力から逃れる為の別の力になってしまおうとする途端に、別のニュアンスを持ってしまいかねません。大雑把に言えば、「俳優がいかにして主体性を持つのか」みたいな政治的なニュアンスが強くなってしまう向きがあります。そうなってしまうことも避けなければならなかったし、平衡的な力関係を目指したら目指したで、突如として意外なところに力が生じてしまう危うさもあります。

それにおいてもうひとつ、今回の公演で特徴的なのは「店長っぽいひと」(脚本より)役のzzzpeaker(a.k.a.グルパリ)の存在です。彼は死者の役であり、クリエイションメンバーと演出とも違う「第三勢力」として存在していました。

店長っぽいひとは、不在の死者でもシェイクスピアの死者でもなく、死者としてあるまじきあからさまさで舞台上に登場する、「つっこみ」(お笑い的に精確に言うと「ぼけつっこみ」)としての死者です。唯一、舞台上で完全なアドリブを認められ、その為になにをしでかすか解らないこのzzzpeakerという死んだ人に、普通の人たちたるまだ死んでいないクリエイションメンバーたちは、いついかなる時も警戒、緊張、翻弄させられ続けてしまいます。
稽古も本番も、この三つ巴の状態の奇妙な緊張関係は機能し、瞬間瞬間において現れる力は常に揺さぶられ、散らばっていきました。

出演者のひとりがある時、「これって会話劇じゃないんですよね」と言ったことがありました。言葉が物語を駆動する訳ではないし、観てる人をはっとさせてやろう、という様なセリフもなく、凡庸な会話が、ただただ凡庸な名前を持つ人間たちの口から不用意に垂れ流され、常に空間の中で散漫し、霧消していきます。

ダイエット広告を見ては焦ったり、「LGBT」という言葉であたりまえの生活を取り戻そうとしていたり、「HSS型HSP」という言葉に救われてみたり、分断・連帯・救済・暴力の言葉が毎日製造されてはひっくり返り、それを胃袋に詰めていくように摂取していく時代において、この声がどの様な意味を持つか、と訊かれれば、はっきりとしたことは判りません。
しかし、実際に結果として、長い時間を掛けて導かれる格好で、凡庸の演劇は産声をあげ、産声は声になり、声である以上瞬間瞬間、消えていきました。

例えばもしここで戦争が起きれば本作は全くの無になるのかもしれません。あるいは今まさにどんな形であれ「戦争」をしている人たちから見ればとても不誠実なものに映るかもしれません。その様な凡庸さは主体や責任の放棄とも言えるからです。しかしその儚さは、生まれては死んでいくことと同じく、本当のことではあると信じています。

という訳で、恐縮です、宣伝させてください。
普通の人が出てきます。みんな死んでいきますが、みんな生きています。だから本当のことを言います。嘘も吐きます。ごまかしたりなあなあにしたり仲良く見えても気を遣いあって本当は疲れていたりします。ぜひ見抜いてください。そこを見抜いた先に風景があります。ユートピアでないことだけは確かですが、美しい風景であるはずです。


青木省二


主宰長谷川の公演中止になっての気持ちです。是非読んでください。



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12ヶ月公演についてのインタビュー動画アップされてます

他メンバーのインタビューのエンニュイのYouTubeチャンネルにアップされています。

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