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私の生い立ち2 おたふく騒動(5歳〜6歳)

前回までのあらすじ
1983年6月、静岡県某所の川から流れてきた桃から生まれた(?)黄色井モモ子。父方の祖父母の家の近くに引っ越し、A第三保育園からB保育園に転園する。

 新しい家は、海まで歩いて5分で行けるような場所だった。私と一つ下の弟、キン太郎には、それぞれ部屋が与えられたが、6歳までは広い畳の部屋に敷布団を敷き、家族4人で寝ていた。隣の家には、弟と同い年の女の子と、その弟が住んでいて、4人でよく遊んでいた。

 B保育園では、おつきさま組だった。私は、おつきさま組の中で一番背が高く、みんなに揶揄われるのが嫌だった。とくに男の子たちは、いつも乱暴で、どうしても仲良くできなかった。髪をはさみで切られたり、腕を噛まれたり、突然殴られたりもした。保育園に行きたくなくて仕方がなかったが、病気でもないのに保育園を休むことは決して許されず、毎朝、泣きながら登園していた。すぐに顔馴染みになっちゃうような小さな街だったから、両親は世間体ばかり気にしていて、できるだけトラブルにならないようにと、何にも助けてはくれなかった。

 そんな保育園生活の自由時間には、いちばん小さな子たちが通う、おひさま組の部屋に行き、小さな子たちのお世話をしたり、一緒に遊ぶのが好きだった。おひさま組には、意地悪をしてくる男の子はいないし、何よりもおひさま組の先生がとても喜んでくれた(今、考えると実際にどう思われていたのかはわからない)。

 お昼寝の時間は好きではなく、こっそり部屋を抜け出したり、お部屋のおもちゃで遊んだりして先生に怒られてた。だけど時々、先生が隣に寝てくれて、お話してくれたり、子守唄を歌ってくれるのは嬉しかった。

 保育園には、おやつの時間があった。あんこやきな粉を使った和菓子系のおやつや、ポテトチップスは大好きだったけど、ケーキやプリンなどの乳製品を使った洋菓子がどうしても苦手で、アレルギーではないと思うんだけど、ちょっと食べただけで気持ち悪くなり、えずいてしまい、いつも食べずに残していた。大人になった今でも乳製品は、ほとんど食べられない。

 母は仕事が終わったあと、自動車学校に通うようになった。その間、私と弟は父方の祖父母の家に預けられた。そのまま泊まることもあった。祖父母の家で、元号が平成に変わる瞬間を見た。

 1989年4月。B保育園の隣にあったB幼稚園に入園。地域柄なのか、B保育園のおつきさま組から、そのままB幼稚園に入園する子がほとんどで、保育園の頃とそんなに生活は変わらなかった。

 私は、あまり病気をしない子だった。感染症が流行しても、家族みんながダウンしても、なぜか自分だけは元気だった。ある日、幼稚園で、おたふく風邪がとても流行し10人以上の園児がおたふく風邪に罹った。そんな中、ちょっと私が、ぼーっとしているときに、

「モモ子ちゃんの元気がない、おたふく風邪じゃないか」

 と先生がとても心配してくれたことがあった。言われてみれば、頬に痛みがあるようにも感じたし、熱っぽくも感じた。そのまま私は、幼稚園を早退させられ、母の運転する車で、病院に連れていかれた。

「悪いところは、どこにもありませんよ」

 そう診断された帰りの車の中、家に帰るまでの間、母は運転しながら、めちゃくちゃ怒っていた。

「どこにも悪いところはないのに、とても恥ずかしい」

 と強い口調で言われた。子供心にも、なんだかとても申し訳なく感じたのを覚えている。

 私が通っていたA第三保育園、B保育園とB幼稚園は今はもう閉園してしまった。

(続く)

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