社会不適合者というレッテルへの反論
病気などでメンタルダウンしている時、「社会不適合者」という言葉が脳裏を過ぎることがありますよね。私も経験があります。
こんなことで働けなくなる私は社会不適合者なんじゃないか、とか。
人間関係がうまく行かない時、私は社会不適合者だ、とか。
自分を責める言葉として、社会不適合者という言葉を使いがちな気がします。
でも個人的に、社会不適合者という言葉は、どうも都合のいいレッテルでしかないような気がしています。
今回は反論してみるつもりで、ChatGPTに定義をたずねました。
一つずつ見て行きましょう。
いやいや、相手の話を遮るのなんて日常茶飯事です。
遮ったこともあるし、遮られたこともあります。
昔ながらの昭和上司は、こちらの話を途中で止めて結論言ってきたりしませんか? 彼らは社会不適合者ですか?
正直、その程度じゃなんともありません。
公共の場で大声で話す? 耳の遠くなったご老人は、所かまわず大声で話しますが、社会不適合者ではありません。
声が大きいのはいいことです。
服装規定なんて破るものです。というか、どこまで崩して許されるかを試すのが恒例行事ではありませんか?
女子中高生の頃、スカートを上げなかった女の子がいますか? まあいるでしょうが、そちらの方が少数派でしょう。
普通です。
まあ、少なくとも、注意されて直せる分には普通です。限界を試すのは大切です。
次に行きます。
いわゆる、空気が読めないってやつですね。
いやいや、全部明文化して説明してくれよ。
そう言いたいところですが、結局のところ、口に出すと角が立ちすぎることを、うまく察し合って対処するメリットは結構あるのが実情です。
私もあまり空気を読むのが得意だったわけではないので、難しいのですが、基本的には経験がものを言うのかなと思います。
それは超能力じゃなくて、一定のパターンに過ぎません。それは習得可能な技術です。私みたいにもともとそれを感じ取る能力がなくても、失敗にめげなければ、徐々に能力を上げることはできます。
とはいえ、仕事は出来るけどロボットみたいな社員ってエンジニア界隈にはよくいるもの。「技術一本で食ってます」みたいな職人タイプです。
心配しなくても、自分以外は空気が読めるコミュ強なので、そのうち周りが察して合わせてくれるようになります。
別にそれを申し訳ないと思う必要もありません。気を遣ってもらえるほど価値ある自分で良かった! とか思っておけばいいんです。
だから空気が読めない人は社会不適合者ではありません。
次。
喧嘩売ってます?(※YeKuは不登校でした)
これは、先輩とか上司に生意気な口をきいちゃうやつですかね。
ああ、私なんか学生時代は先生のことを友達扱いしてましたし、仕事では上司や年上の同期のことを友達扱いして顰蹙を買っていましたが、正直、友達扱いされてる上司や同期が私に苦言を呈すればいいだけで、他人に「組織の規範が~」とか「上下関係が~」とか、とやかく言われる筋合いはありません。
そして人間はみんな平等なんです。命令系統があるにせよ、上下はありません。一人ひとりが他人を判断する権利があり、尊敬できない上司に、上司だからというだけで敬意を払う必要はありません。
だいたい、本人たちは、私に友達扱いされて喜んでいたかもしれないじゃないですか。まったく。
まあ、とはいえ、心の中では不服従でも、表面上は従っているフリが出来た方がうまくやっていけるのは確か。
一つ言えるのは、極論、なんであれ仕事さえできれば何でも許されるきらいがあります。会社では仕事ができてナンボ。仕事ができる人は、潜在的に会社に対する貢献度が高く、それだけである程度の権力や尊敬を得ることができます。
アンナチュラルの中堂さんはそんなタイプですが、受け入れられてますよね。
ですから、馴染めないとしても、そっちはすっぱり諦めて仕事の能力を上げていけば結果的に適応することができます。
ルールにうまく従えなくても、社会不適合者ではありません。
次で最後です。
例え家族であれ、自分が他人と異なるのは当たり前のことです。一緒だと感じているなら、それは幻想に過ぎません。
確かに私も友達は少ないし、深い人間関係を築くのは苦手ですが、別段それで困っているわけではありません。
多くの友達がいると、連絡や交流の金銭的・時間的コストを支払い続けて人生が終わります。それに比べれば、私たちのような人間は自分のために贅沢に時間を使うことができる幸せな人種ではありませんか?
確かに、困ったときに頼れる人が少ない事実はあるのかもしれませんが、人間は、人に頼らず自分自身の力で物事を解決することで、自己効力感を高め、自信を持つことができます。
逆に、なんでも人に頼らないといけない方は、自分がいつまでたっても一人前ではないように感じ、逆に自己評価を下げていくケースだってあります。
ですから、友達が少ないから孤独感が深まると言うのは誤解であり、その状況にある本人がどう感じているか、考えているかだと言えるでしょう。
最後に
こうして見てきたことで、「社会不適合者」という言葉がいかに陽キャ目線の曖昧で偏見に満ちたレッテルかが明らかになったと思います。
結局のところ物事は捉え方、感じ方次第であって、見方を変えれば短所は長所になり、逆もしかりです。
確かに「社会不適合者」と誹りを受けるような方々は、浮いていたり、他人からの支持を集めづらいかもしれません。でも、多様性を受け入れていくのが社会であり、一様でない様々な人々と共存していくことは、適合できる人、そうでない人それぞれに共通した課題です。
適合できる人が、できない人にただレッテルを貼って遠ざけ、共存を諦めるのは彼らの怠慢です。
適合しづらい人がこのレッテルを使って自分を卑下するのも、思考停止ぎみであると言わざるを得ません。自分を否定して楽になるのは一瞬であって、長期的には、「それでもどうやって共存していくか」「どうしたら強みになるか」を探る必要があるでしょうし、それはきっと見つかります。
適応するために、他人の力を借りたり、環境を変えてみたり、経験を積み、工夫すること、それ自体が自分を成長させる貴重な機会であると捉えることもできます。
苦もなく適合できる人が羨ましいかもしれませんが、彼ら彼女らが知らない経験を積んでいる魅力的な大人なんだ、と考えることもできます。
個人的には能天気に生きている人よりも、人生の苦みを味わい、戦ってきた人の方が人格に深みがあって、素敵だと思います。
いずれにせよ、社会不適合者的な特徴を持っている方も、そうでない方も、このハリボテのような空虚な悪口に振り回されず、人生をのびのびと生きていけることを願っています(私も含めて)。
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