存在することの『価値』:引きこもりやニートでも
人生が困難な局面に直面したとき、私たちは自身の存在価値を問い直すことがある。
厚生労働省が定める「広義のひきこもり群」とされる人は令和5年3月の調査結果時点で、約146万人と推計されている。平成30年時点の61.3万人から見れば倍以上に増加した。
一方、若年無業者である15~34 歳の非労働力人口のうち、家事も通学もしていない人(ニート)は令和4年の平均で57万人だった。さらに35~44 歳では平均で36万人だった。
私は引きこもりでかつニートだった時期もある。しかし、特に引きこもりやニートに生きる価値がないとは思った記憶もない。
そもそも生きる価値とはなんだろうか。価値というからには他人が定義するものであろう。それを「誰かの役に立つこと」と定義するならば、どんな人間も、生きているだけで価値を持っている。
これは、きれいごとではない。
生きているなら食事をしているはずである。その食事を提供するために何らかの形で金銭を提供していて、それを稼ぐ何かしらの活動があったはずである。さらにはその食事を作った人物、スーパーマーケット等小売店の営業、そして食材を運ぶ物流、生産者、その家族。
「食事」一つとっても多くの人が関わり、生きているだけで雇用の機会を生み出している。電気を使っているなら電力会社やその設備を作り保守点検する業者、発電所の職員に対してもパイを分け合って雇用を創出している。本でも読んだりゲーム等で遊ぶならなおさら多くの人に影響を与えている。
もちろん、それでも直接働かなければ「社会貢献」にはならないという考えもあるだろう。そもそも、そんな影響なんてたかが知れている。ゼロに等しいと。
だが直接働くことだって数値化すれば一人当たりの貢献値はほとんどゼロに等しい。私なんてPCに向かってパチパチキーボードを叩くのが主業務である。こう言っては何だが、社会全体の中の一という視点で見れば、働いている人とそうでない人は大して変わらない。
私たち一人一人の人間は、誰でも、社会を構成するゼロに等しい何かだ。それが寄り集まって構成されているのが社会だ。引きこもりだろうとニートだろうと社会に影響を与え合って生きている。どれだけ社会から隔絶されていると本人が認識していても、影響を与えないということは不可能だ。
誰であっても、生きているということは社会全体にとってポジティブである。なぜなら人々に様々な行動の動機や雇用の機会を与えるからだ。
もちろん、働いたり他人とコミュニケーションしなくても生きているだけでいいという主張を、ろくでもないと感じる人は多いだろうし、国民の全員が無職になったらそれは困るだろうが、そうはならない。AIやロボットが発達して人間が働く必要がなくなったとしても、大半の人間は全くの無職に長く耐えられないだろう。
まぁ、私は政府の人間ではないし、引きこもりもニートも経験している。ものすごいポジショントークである。
そのうえで言うが、引きこもりであろうとニートであろうと、いなくなることは悪い。ポジティブな影響力を持つ存在がいなくなることは人間社会にとって悪だ。もちろん支えるご家族に負担があるような状況もあろうが、それは個別の各ケースで助け合いながら支えていけば良く、その「支える」ということ自体が誰かの人生に意味を与え、救いになることもある。
こうして考えてみると、人間は意味を欲しがる生き物だ。自分が生きる意味、死んではいけない理由、役割、やること、暇つぶし……。人が一人生きるということは否応なく他人にそれを与える機会になる。
逆の方向に行った時を考えてみればそれは明らかだ。誰も食べない野菜を作っている農場は閉鎖するしかない。誰も遊ばないゲームを作る会社は畳むしかない。そんなことは誰も望んでいない。でも人がいなくなるとはそういうことだ。
だからもし引きこもりだったりニートで自分の存在意義に悩む方がいるならば、自分が生きていることの影響力をもう一度考えてみて欲しい。あなたは間違いなく、生きていた方がいい。
それに、別にあなたにとってだけじゃなく、誰にとっても等しく人生は無駄だ。無駄だがみんな何かしら生きがいを作って、響き合っている。その色相の豊かさが人の面白みでもある。
仕事というのは意義を与えてくれる便利なツールだし、人と接することも何か大きな「やった感」を人間に与えてくれる。人間はそうしたことに「やった感」を覚え、そうでないと罪悪感を覚える生き物なのだ。たったそれだけのことだ。引きこもりでもニートでもなんでもいい。自分を責めてしまいがちな時は、ぜひそれを思い出して欲しい。
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