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結局、すべてに飽きるという諦念

先日、快感や喜びを飽きずに享受し続けるコツというテーマでメンバーシップ限定記事を書いた。

マガジンはメンバー様のために書いているのだが、自分自身もメンタルケアに関して執筆する中で、学ぶところが大きい。中でもこの記事は私自身にとても刺さった。

私はまさに、人生において「喜びを感じる時間」をいかに長くするかというテーマで生きているからだ。

喜びを感じる神経細胞が発火しなくなるまでしつこくこすり倒して、自分の中にそれを楽しむ感覚が無くなったら、見向きもしなくなる。

私の挙動は徹底しているので、もし日常を見ている人がいれば、たぶん呆れると思う。集中しすぎて、生きてるか死んでるか分からないぐらい動かないということがよくある。

例えば、PCの前に座ったまま没頭して24時間動かないとか、スマホを見て寝っ転がったまま24時間経過、あるいは本を読みながら……というようなことだ。

かつ、この没頭中に割って入られるのが大嫌いだ。実際に声を掛けられるのも嫌いだし、LINEなどで連絡されるのも嫌いである。相手に悪意は無いのだが、没頭している時は目の前のことに全てを注ぎ込んでいるので、相手に対して人間らしい感情を抱くことができず、ひたすら邪魔な存在としてしか認識できない。

このような調子だと他人と一緒に暮らすのが難しいので、一人で過ごす方が性に合っている。実際、何度か他人と一緒に住んだこともあるが、うまく行かなかった。

困ったことに、過集中と無感覚を繰り返すクセは、人間関係においても発揮される。友人関係でもそうだし、恋愛関係でもそうだが、私の他人に対する衝動は、交流やあたたかみよりも、「理解したい」という衝動に支えられている。

相手のことを徹底的に分析して、次にどんな行動を取るか、何を話すか、そしてどういった動機からその言動を取るのか、といったことまで理解し、脳内に再現出来るようになると、実在する人間としての相手を必要としなくなり(だって脳内にいるから)、関係性を持続することに興味が無くなってしまうのだった。

友人関係ならフェードアウトしていくだけだが、恋愛関係は一対一なので、次の対象を理解するために関係を解消したいと考えることも多い。

恋愛感情は膨大な脳内麻薬を発生させる仕組みなので、抗いがたく対象に結びつけられることがあるが、人間の仕組み上、最長でも3年程度しか持続しないため、いずれは限界が来る。

こういう生活を続けていると人間関係が断続的だし、新しく物事を始める時に、「どうせ飽きるしなあ」と終わりが見えて白けてしまう。

そう、全てのことは、どうせ遅かれ早かれ飽きるのである。お酒にも、食事にも、仕事にも飽きてきた。

とはいえ、今までのようにひたすら喜びに没頭する生活を止めるのは勿体なく感じる。例えばPCは一日3時間までとか、制限を設けるのはどうだろうか?
 
しかし、没頭した時の圧倒的な高揚感は何にも代えられない。誰にも邪魔されず狂ったように没頭するのは至福の喜びである。

あまり飽きたくないようなこと、大事に消費したいコンテンツに対しては、間隔をコントロールすることで飽きづらいように調整が可能かもしれない。

しかし、本当に魅力的なコンテンツを前に、涎を垂らしながら消費を我慢するのはもったいなくも感じる。

だからといって、「どうせ飽きる」から何もやらないということを突き詰めると、「どうせ最後は死ぬ」から何もかも無意味だという結論になる。何もかも無意味だという虚無感は、私が昔から戦っている感情でもある。

未来や過去の概念が無い動物は、今この瞬間を常に楽しんでいて、ひどく幸せそうに見える。私のような人間は過去や未来を考えることで不幸になりがちなので、マインドフルネスなどの今に集中する技術が役に立つ。

だが、それらを駆使しても、しみついた虚無感や無価値観から完全に抜け出すことは難しい。

双極性障害特有の気分の波もあって、ダークサイドにある時なかなか乗り越えるのが難しい時があるが、苦しんでいるのは自分だけではないだろうから、何とか乗り越えられるよう、今後も自分をケアしていきたい。


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