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「耳障りが良い」は障りがあるので、手触り撲滅過激派に転向する。

 私は自己紹介に書いた通り、プログラマとしても人間としても意識が低い。他人よりも自分の価値観に忠実な人間である。

 例えば、プログラマとしては、「インデントが出来ないヤツはクズだ」には同意するが、「プログラマたるもの1年に1度は新しい言語を習得しないとクズだ」には同意できない。面倒じゃん。でも「後々保守のことを考えてコーディングするべきだ」には同意する。さんざん痛い目を見ているからだ。

 そして、子供の頃から本を読みまくってるせいで、日本語に対するこだわりも強い。

 数十年前からネットに書かれる文章を読んでいて、見るたびに引っかかるのが、「耳障りが良い」。これだ。この誤用が多すぎる。

 「耳障り」はこれ一単語で、「不快な音」を示す。だから、「耳障りが良い」は、「目障りが良い」と同じで日本語としては意味不明である。

 少し考えたのだが、「手触り」と混同しているようだ。なんでかは分からないのだが、耳障り、と”障”の字を用いているにも関わらず、書いた本人は違和感を持たないものらしい。

 じゃあ「耳触り」なら良いのかと言うと、あまりスタンダードな言葉ではないと思う。音にした時に「耳障り」と区別できないのが微妙だし、そもそも「耳障り」が使えないから、仕方なく最近できた語のような気がする。

 探したら、文化庁にもそのようなQAがあった。

 同種の言葉である「目障りが良い」は聞いたことが無い。音に関しては人間の体感的に「触る」感じがするから、「耳障り」という言葉を使いたいのだろう。使えないので仕方なく「耳触り」としだしたのだ。

 でもなぜだ。
 
 「耳障りが良い」と言いたいなら、「耳に心地よい」とでも書けばいい。なんでわざわざ触りたがる

 大体、音に対して使うのも微妙な気がする。音が触るのは耳ではなく鼓膜である。「耳触りの良い耳当て」なら分かるが、耳は肌だ。肌触りでいいではないか。一体なぜ、「耳障りが良い」とわざわざ使いたがるのだ。理解できない。

 もし、「手触り」「肌触り」から連想して「耳触り」と書きたいなら、もう「手触り」「肌触り」をこの世から抹消してはどうか。いや、そうだ、それがいい。そうしよう。そうすれば「耳障り」は誤用されず、「耳障り」としての地位を確立できるはずだ。

 ということで私は今日から「耳障り」を守るため、「手触り」「肌触り」撲滅過激派を名乗ろうと思う。

 「手触り」を認めぬ。「肌触り」も認めぬ。これは修羅の道である。私の反乱を応援し、賛同いただける方は、「手触り」「肌触り」撲滅過激派に入っていただけると嬉しい。
 多分、活動内容はTwitterで「手触り」と書いている人を見かけたらクソリプを送るなどになると思う。色々差し障りのある、クソみたいな派閥である。
 「耳触り」派閥とどっちがマシかは議論の余地がある。


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