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不安定な日々に種をまく

最近noteに書くのもつぶやきばかりで、長めに書くことをしばらくやっていなかった。他のSNSに書いているのもあるけれど、調子が良くないのが続いている。調子が良くないからこそ、ここでのつぶやきが増えたのかもしれない。
 とは言え五年以上鬱が続いていて、しかももともと対人不安などで生きづらさを子どもの頃から感じていたので、調子が良くないというのが自分みたいになってしまっている。調子がいい時は軽躁なのかなと思って、あがりすぎないようにしていたりする。鬱と鬱の間で生きているような感じがずっとしていて、時々自分にはボロボロの身体しか残らないんじゃないかと思う。継続的に何かを行うことが難しいから新しい人間関係も作りづらく、世界も広がっていかない。継続的といえば心療内科への通院もそうで、辛くて行けないことも多い。こんなにも通っているのに主治医に心を開けず、話せない自分がもはや愚かなんじゃないかと思って辛くなってしまう。
 去年もそんなことが続いていて持ち堪えることが難しくなり、教会に行って牧師の方に話をした。高校時代の恩師がすすめてくれた本を本屋へ探しに行った時、その本の近くにあった本を書いた牧師さんだった。自分には信仰はなく、少し不安ではあったけど行ってみた。高校生の頃から誰かに話に行く行動力だけはなぜかあって、不登校について講演をしていた教授に話を聞いてもらいに行ったり、中学生の時に知った臨床心理の教授に、高校のころに何回か教授室まで会いに行ったりした。今思えばどの先生も本当に話を聞いてくれた。その時の自分は、感謝を示す言葉を全然持っていなかったけど。
 牧師さんに話を聴いてもらってから、しばらくそこに行けていないのが自分でも引っかかっている。そこに通い続けなければならない訳ではないけど、体調などで行けそうにないと思ってずっと行けていない。継続的とか考えすぎず、もっと気楽に行ってみればいいと思うのだけど。謎の行動力をたまには発揮して…
 そういえば牧師さんに相談した時に、「鬱を持ちながら日々働いてる、それだけで頑張ってる」と言われてその時は受け止められなかったけど、今はそのことを思い出して心が楽になる時がある。花が開かなくても、種をまくことが大事なのかもしれない。
 調子が悪い時に動く、動かないという判断は決断というものに近く、それをすることも鬱状態では辛い。五年、ここまできてしまった、そんな感じが最近はある。でもだからといってその事で自分を追いつめるのは止めたい。思考で苦しいのなら一度思考を手放して、やりたいことをやりたいようにやってみる。前にも書いたけど、心のエネルギーが無ければもっと動けなくなるのだから。
 うまくまとまらなかったけど、久々に書けて良かった。いや、まとまらなくてもいい。書けたことが良かった。今はそれでいい。
 
 

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