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ワンピースを失くした話

もう八年ぐらい着ていた、真っ黒なワンピースを失くした。今日は、この夏はじめて蝉の声が聞こえて、これからの暑さを教えるように乱暴な風が吹いていた。

洗濯したてのワンピースを、ベランダに干しただけだった。この日差しと風なら、二時間で乾くだろうと思った。念のため、手持ちのハンガーの中でもいちばん重いものにかけていたのだが、一時間経って窓の外を見た時には、ハンガーごとさっぱり消えていた。

その真っ黒なワンピースは、腰から足首までを薄い綿の生地が三重に覆っていて、私の夏のなんでもない日に着るための服だった。夏の日暮れに夫と散歩へ出かける時や、煙草を買い足しにコンビニへ行く時、家から一歩も出ない日にも着ていた。電車に乗るようなお出かけには少し気楽過ぎる、あのふわふわの裾が気に入っていた。

「あら、いない……」というのは、無意識に出た声だった。ベランダの床を見渡すが、室外機から漏れる水がちょろちょろと流れているだけ。下に落ちてしまったかしらと、柵から身を乗り出して見回すが、あのふわふわの影すらない。思っているより遠くに飛んでしまったのかもと、向かいの棟のベランダや電柱の先にまで目をやるが、やはり無い。

ベランダのすぐ下は、手入れのされていない植え込みになっていて、そこに足を踏み入れて探すことが住人に許されているのかどうかは分からなかった。すぐに下に降りて、ちょっと探せば見つかるものなのかもしれない。けれど、今それをしようともしないで言葉を綴っているのは、私の心が、ワンピースの喪失で思いのほか揺れたからだ。

なんでもない時の服だと思っていた。無くても、特別、困りはしない。私は、あれよりもっとしっかりと縫われた黒いワンピースを持っているし、ゆるく身を包む部屋着こそほかにもある。ただ、あの真っ黒なワンピースがいなくなってしまったと認めた時、あれは、私のいい気分の象徴だったのだと気づいた。

風に簡単に揺れるふわふわは、私の足をもつれさせることもあったが、その力の抜ける軽さが好きだった。綿の頼りない生地は、幼い頃に握ったタオルのような安心だった。真っ黒と言ったけれど、実は洗い晒して消炭のような色になっていた。その間抜けな姿形は、私にも何も求めなかった。気合を入れた化粧も、髪型も、香水も。

……まるで、気の置けない友人を失ったような気持ち。

p.s.
下に降りて、探してみます。

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