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大切はどこにある

やることがないときに、気づいたら考え込んでいるテーマがあった。この人を大切だと思うとき果たして大切なのは何か、ということだ。目的語(O)は“この人”だけど、その相手のことだけを大切とするのは、なんだか少し違う。いちばん大事な部分を言い表しきれていないような、穴がないドーナツのような、これじゃないんだよなあという感じがする。

私にとって、例えば妹と弟がそうだ。同じ遺伝子と血をわけて、同じ家で同じ人たちに育てられた、何にも代わることができない唯一無二の大切。でもじゃあ、妹の、弟の、瞳や産毛や心臓の存在そのものが大切なのかと言うと、それらは言うまでもなく大切だけど、絶対にそれだけじゃないよと思う。妹が何年も前にくれたバースデーカードや、弟が静かにかけてくれた言葉や、三人で見た景色や笑った記憶も、彼らの瞳や産毛や心臓とまったく同じ濃度で大切だ。

この面倒くさい大切を、ひと言で表すにはどんな言葉がふさわしいのか考える。さて私が言いたい大切は、どこに存在しているものなのだろう。私の頭あるいは心の中にあるものなら、大切の在り処は妹や弟じゃなくて私なのだろうか。

こういった細かすぎることを考え込むのは、だいたい風呂上がりに髪を乾かしているときだ。左手は櫛代わりに髪をすき、右手は重いドライヤーを持って忙しなく動くので、まず両手がふさがる。さらに髪の流れがへんてこになってはいないか、視線の勝手まで鏡に奪われる。すると私に残された自由は頭の中だけで、でも特別深刻な悩みも嫌な人も(徹底して避けて生きるから)ない気楽な人間なので、ふわふわ軽薄な思考はあっちへこっちへ旅に出る。

ある朝また髪を乾かしていたとき、右腕が洗濯機にぶつかった衝撃で、大切に使ってきたリップが洗濯機と洗面台の狭い隙間に落っこちた。目を凝らして覗き込むと、その隙間には、夫がごみ箱に捨て損ねたコンタクトのミイラや、母から譲り受けた古着のカーディガンからほつれたタグなんかも落ちていた。君たちがここにいるなんて、まるで気づかなかった。ほこりもたくさん溜まっていて、それらはまるで自我を持ち、人間たちに隠れて会合を開いていたのだと言い訳されれば納得してしまうほど、錚々たる顔ぶれだった。

でも会場のオーナーとして不衛生は見過ごせないので、納戸から細い棒を持ってきて、その先にティッシュをまとわせ隙間の奥へ伸ばす。それを手前にすっと引くと、リップとミイラとタグ以外のものまで現れた。リップを二本指でつまみ上げ、濡れたティッシュできれいに拭く。タグは爪先で弾いてほこりを落とし、机の抽斗にしまった。それらの仕事を終えて、また髪を乾かそうと鏡を見たとたん、「隙間じゃないかしら」と声がした。

妹と私の隙間、弟と私の隙間、あの人と、あの子と、誰かとの隙間。そこにこそ大切があるんじゃないかしら。時間が、言葉が、香りが……相手の中でも私の中でもなく、その隙間に降り積もっていくものならば……それを大切だと、呼べるなら……

なるほどと心得た。隙間にあるから、もしも相手か私かその両方が世界からいなくなっても、大切は失われない。ここにも、そこにも、ほらあっちの方まで、人の横には大切が揺れている。世界は、何千年も何万年も前を生きた誰かたちの大切であふれている。そこまで考えて、その途方もなさにゾッとして、でも妙にしあわせで安心な気持ちになった。
髪はすっかり乾ききった。

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