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家族の年

 ロシアでは今年2024年が「家族の年」として宣言された。プーチン大統領は直後の演説で「政府の仕事の出来栄えは主にロシアの家族にとっての利益という観点から評価されるべき」であると述べた。これに触発されてか、昨年末にかけてパレスチナ問題とグローバルサウスの将来に関連する話題で埋め尽くされていたロシアの言論空間で、家族というテーマが再び盛り上がりを見せている。そのタイミングで発表されたのが哲学者アレクサンドル・ドゥーギンの論説記事だ。

 ドゥーギンは冒頭、「家族の年」に言及し、この分野における「我々の状況は非常に不幸なものだ」と悲観的な見方を示した。その理由として彼は「高い離婚率、多数の中絶、出生率の低下」を例示し、これらを「国家的な災害」として糾弾した。そして本気で「家族の年」に取り組むならば、「家族の崩壊を加速させるだけである」自由主義者や共産主義者の考え方ではなく、伝統的な考え方に基づくべきであると主張した。そして続いてドゥーギンはロシア社会に蔓延る問題の分析をしているのであるが、その中で20世紀初頭に活躍したドイツの社会学者ヴェルナー・ゾンバルトを引用している。ゾンバルトの知見を現代社会にどのように適用できるかという一つの解としてドゥーギンの論説を読むことで、ロシアという国家の枠組みを超えた適用可能性を探っていこうというのが今回の趣旨である。

愛妾経済

 ゾンバルトの業績は必ずしも家族政策で知られているわけではない。しかしゾンバルトは人々の生活様式と国家のあり方との関係を詳しく分析した研究者であり、そこにドゥーギンは着目したのだろう。ドゥーギンは次のように分析している。

ゾンバルトは年のブルジョワ的条件と工業化が、のっけから家族崩壊の土壌を醸成していたと指摘した。彼は近代の欧州都市部における資本主義や自由主義の原動力は、事実上通用していた都市部の愛人制度にあったと考えていた。田舎の普通の農民にとって家族以外の誰かを養おうというのは大変であった。個人的資産とブルジョワの都市的な生活様式は寄生的な愛人制度の台頭に寄与した。ゾンバルトによれば、吸血鬼のようにますます多くを要求する彼女達は、欧州社会の資本主義化と近代化の重要な要素であり、技術的発展や革新、起業家精神を促進させた一方で、道徳を破壊した。

「中世へ進め!」2024 アレクサンドル・ドゥーギン

残念ながら、ドゥーギンはゾンバルトの著作への出典を明記しなかったので、ゾンバルトがここまで具体的に述べた著作があるのかは判断できないのだが、大枠ではいわゆる「愛妾経済」のことではないかと思う。実はゾンバルトが愛妾経済を論じた本は日本語に翻訳されているようなのだが、私の手元には訳本はないので、原本によって論じようと思う。

 ゾンバルトは16世紀の大富豪アゴスティーノ・キージを例に愛人が公然と許容される文化の広まりを論じた。キージは妻が居たにも関わらずフランチェスカという妾を抱えて、やがて長男をもうけた。そしてあろうことかその長男の洗礼式を教皇自身が14人の枢機卿と共に行なったというのだからたまげたものである。そしてこのような愛人文化は特権階級にとどまらなかった。16世紀末期から17世紀初頭にかけて、パリで舞台に女性が見られるようになった。これはチャールズ2世が英国で始めた習慣だという。オペラの人気女優がチンクエチェントの詩人や宮廷画家に取って代わるようになったのだ。17世紀から18世紀にかけてそのような文化が広まっていくに従って、文化の中心としての愛人の数は一層増えていくことになる。ゾンバルトは、18世紀末期のパリの様子をこのように記述している。

18世紀末頃の話として、宮廷のお偉いさんの20人の内、少なくとも15人が妻とではなく愛人と暮らしていたと言われたら、その概算は間違いなく真実にとても近いものであると言えよう。しかし愛人を抱えていたのは何も宮廷の騎士だけではなかった。まもなく高利貸らの間でも“demoiselles de moyenne vertu”と呼ばれる、徳の中庸な女性たちと交際するのが好ましい【einzuschmeicheln】とされるようになった。斯くたる情事にかかる費用(後述する)は大金持ち【の男たち】の予算の中で最大の項目となっていた、とこの手の事情にとても詳しい専門家(ティリオン)は綿密な研究を基に伝えている。18世紀の優美な年譜は、冒険的情事事情と職業全般を密接に関連づけている。

「贅沢と資本主義」1912、ヴェルナー・ゾンバルト著p67より筆者訳出

文脈から察するに“demoiselles de moyenne vertu”(徳の中庸な少女たち)というのは、おそらく“femmes de petite vertu”(徳少なき女ども)に類似する語なのであろう。要するに売春婦の婉曲表現である。ゾンバルトによればロンドンでも同様の状況だったようで、収入の9割は娯楽に費やされて中でも「女」がその大部分を占めていたように書かれている。

 さらに読み進めてまとめると次のようになる。資本主義社会において経済が活性化しているというのは、要するに無駄が多いということで、これを贅沢と呼ぶわけである。そして贅沢というのは、結局のところその大部分が時代によって形が変わる女遊びなのだ。乱暴にいうならば、一夫一妻に縛られず多様な女遊びが出来る愛妾経済こそ、みんなが儲かる資本主義社会なのだというくらいのことであろう。そして、ゾンバルトにせよドゥーギンにせよ、そんな資本主義社会を肯定するものではないのだ。ここで、「ブルジョワジー諸君の家族というのは、その程度の詭弁に過ぎないのだから解体してしまえ!」と絶叫すればカール・マルクスになるのだが、それも間違っているという気付きがあるのもゾンバルトとドゥーギンの共通点とも言えるのかもしれない。

農村経済

 斯くも退廃した都市部の愛妾経済の社会だけではなく、ゾンバルトは別の著書で資本主義以前の社会を分析している。それが「近代資本主義」(原題:Der moderne Kapitalismus、初版:1902年)である。この本も戦中期に日本語訳が出ているのであるが、今となっては入手が困難なので、これも原本に頼って分析しようと思う。ゾンバルトは黎明期の(früh)資本主義(Kapitalismus)を初期資本主義(Frühkapitalismus)と呼んで、この時代からどのように移行したかを次のように論じている。

III. 世帯の解消

 初期資本主義末期までの全ての時代において、経済活動の大部分は家庭の枠組みの中で行われていた。これは消費経済であっただけではなく、製品のかなりの割合が家で製造されていたという点において、生産経済でもあった。(中略)妻や成人済みの子供、あるいは恒久的にその家庭で生活しているその他の親族を養う能力は、この商業活動に基づいていた。このような人々は、家庭における生産に従事することで生計を立てていた。そして今やこの経済的共同体も崩壊し、人口の大部分を再び解放したわけである。

 生産経済としての旧来の家庭経済が解消した理由は明らかである。

 一般的に、工業製品の価格高騰と市場におけるそれらの購入機会の増加が家庭生産をやめる強いインセンティブを作り出したのである。

Der moderne Kapitalismus, 第6版 p350より筆者訳出

こうして世帯が解消されて個人が世帯から解放されて行ったわけだが、それは本当に個人の幸福度の向上に寄与したのだろうかという問いに対して現代社会はしばしば不誠実である。初期資本主義末期までの時代は荘園や大規模農園における労働態様は全ての欧州諸国で、よく類似した家父長的な性格を帯びたものであったとゾンバルトは記している。このあたりが、後述するドゥーギンの提言の根幹を成す部分であるように私は思う。

労働態様が「家父長的」であったのは、荘園や農民経済においては分配関係があったおかげで、使用者と被用者の間には広範な互恵関係があったからであって、要するに起業家と賃金労働者との間の利益相反がまだ成立していなかったからである。

Der moderne Kapitalismus, 第6版 p346より筆者訳出

 この文脈における「家父長的」というのは、およそ父親が子供を監護するように雇用主が労働者を監督する労働環境のことであると考えられる。それは労働者が雇用主と親戚であるなど血縁関係にある場合もあれば、血縁関係はなくとも親戚のように扱われる場合もあるのだろう。いずれにしても一方の利益に比例して、もう一方の利益にもなるようなビジネスモデルだったと指摘したいのだと思われる。この互恵関係は資本主義が成熟してくるに従って解体され、人間関係の希薄な雇用形態によって置き換えられて行ったというわけである。その崩壊には3つの段階があるとゾンバルトは指摘している。

  1. 「わけまえ」の形式が廃止される。

  2. 現物支給から、現金支給にかわる。

  3. 家族全体との長期(年間)契約から、労働者個人あるいは労働者集団との短期契約に移行する。

 ゾンバルトのこのような分析を理解していれば、ドゥーギンの提言もスムーズに理解できるのではないかとの考えで、ここまでゾンバルトの研究の紹介を進めてきた。それではいよいよドゥーギンの論考を読み解いてみよう。

ロシアの伝統的家族とその崩壊

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