現代における西洋的価値観とイスラムの関係性
はじめに
今回の記事を書くことになった発端は、「レッドピル」とイスラムを結びつける言説を見かけて、それを裏付ける根拠があるのか調査したことにある。そこで見つけたのがこちらの論文だ。
西側諸国における文化戦争の文脈にイスラム教徒の男性性がどのように関係してくるかという話なのであるが、そこに書いてあったのは、元の言説を遥かに超える珍説であった。あまりに奇抜なので、基礎となる言説から深掘りしていこうと思う。
分析の枠組みと前提
近代以降の西洋における自己の概念と切っても切れない関係にあるのが、個人という概念である。日本語の個人という単語は英語で言うところの「individual」の訳語であり、つまりは不可分な存在を表している。あらゆる関係性を削ぎ落として行った結果、それ以上分けられない存在として残るのが個人である。その文脈では、現代の自己の境界線というのは明確だということになっている。
その自己に緩衝材を纏わせて、外界との間に調整空間があるのが「緩衝材に覆われた自己(buffered self)」であり、対して「多孔的な自己(porous self)」は外界の影響を受けやすいというような説がある。このような対比はチャールズ・テイラーという新左翼の政治哲学者が提唱したもののようである。この枠組みでは、「緩衝材に覆われた自己」は現代の西側諸国に見られるような世俗的社会における自立した自己のあり方として描かれ、他方の「多孔的な自己」は中世の欧州や現代のアフリカなどに見られるような宗教的な社会における脆弱な自己であるというように分析される。細かく見ていくとデタラメなのであるが、一般論としておよそ西洋諸国も昔は今に比べれば宗教的で共同体の繋がりが強かっただろうというところまでは異論のないところだと思う。いずれにしても、このような用語を使う以上は、細心の注意を払わなければ用語が提唱された背景に照らして、個人主義かつ世俗的な社会の肯定へと偏向してしまうということである。反対に宗教的で人間関係の関わりが強い社会は、古臭くて未熟で非合理な社会であると切り捨てることになる。
つまりテイラーに言わせれば、多孔的な自己というのは、自己と外界との境界が穴ボコだらけで、線引きが明確でないないために、感情の発生源は外的要因であるし、悪霊などの霊界に対して脆弱で、したがって常に怯えていなければならない。そんな調子だから、病気になればすぐ罪と結びつけるような迷信的な性質であり、だから怯えながら生き、ともすれば霊に取り憑かれ、自律性に欠けるのだ、とおよそ悪口を書き立てている。常識的に考えれば、このような立場を受け入れてイスラム社会を分析すれば奇抜な内容にならざるを得ない。それにもかかわらず、彼の分析が採用されたのは、2008年のインタビュー記事で彼がイスラム恐怖症への不快感を表明したからではないかと考えられる。
なお、論文自体の出典には2007年に出版された「世俗の時代」だけが示されている。
論文の主要な論点
この論文の主要な批判はおよそ次のようなものである。
イスラム教徒のコミュニティの一部では男性性の危機が信じられている。この危機の原因は近代的なもの、フェミニズム、世俗主義であるとされている。イスラム教徒の「マノスフィア」はフェミニズムを伝統的な性別による役割分担に対する脅威であるとみなしている。これによってイスラム教徒の女性は爪弾きにされ、フェミニズムの原理原則とイスラムの伝統が共存できる可能性を無視している。
オルタナ右翼との交差。自由主義やフェミニズムへの懸念という共通の懸念を基にイスラム教徒の「マノスフィア」がオルタナ右翼と収斂(合流)している。
衰退論と伝統主義の批判。衰退論は懐古主義に終始していて、発展していくイスラム学を見落としている。伝統主義は現代風の生き方とイスラムを整合させようというイスラム教徒を疎外して、古い慣習に囚われている。伝統的なイスラムの学者たちは近代的で世俗的な影響から、純粋で「正統な」イスラムを守っているが、これが権威主義を助長している。
したがって、ではどうするべきだというのかというと、
イスラムは現代的な風潮に適合する形式で理解されるべきである。
そのためにはイスラムの伝統は批判的に検証されるべきである。
そして、性の問題はフェミニズムであれ、同性愛であれ、より包摂的で公平であるべきである。
というようなことを提唱しているようである。
イスラムの性規範
論文は2021年に投稿された動画を出発点に論じている。これがその動画だ。
最初に出てくる髭の男性はネットで多数の動画を公開しているメンク師である。師はオレンジ色の毛糸を丁寧に編みながら、「昔おばあちゃんに習った」などと語っている。そして、アル=ロマーニ氏がこれに対して批評しているという形式である。ロマーニ氏の批判は、男性が編み物をすることそのものに対してというよりも有名な説法師が、あえてこのような姿を見せる事の意義を問う形になっている。「馬に乗るとか、弓を射るとか、水泳なりランニングなり男らしいことがあるだろう。」それなのになぜ敢えて編み物なのか、そしてその様子を動画に収めてネットに公開するのはどういう目的なのかと問題提起しているのである。対して、この論文ではそのような凝り固まった旧い考え方は非生産的だというような立場から、アル=ロマーニ氏のような古臭いおっさん達の集合体(マノスフィア)がなぜかくも誤った立場をとってしまうのかを批判的に分析しているのである。
しかし、このように問題提起するとまるでメンク師が性規範の撤廃を推進しているかのようであるが、これは誤解である。メンク師は次のように述べている。
さらにこのような問題に関しては米国の多くのイスラム学者が共同声明を発表しており、私が以前に翻訳を公開した。西側諸国における性規範の乱れは常軌を逸するものになっており、これに対してどのように対処すべきかという問題は重要な社会問題になっているのだ。
メンク師は過去にこのようにも投稿している。
「私達はいつも女性の権利について話します。とても大事なことです。しかし、男性にも権利があるって知ってましたか?」
論文ではこれらの背景を無視して、メンク師の動画に批判を加えた面々を、西側諸国のオルタナ右翼に相当するとみなして、「ムスリム・オルタナ右翼」「グリーン・ピル運動」「イスラム国粋主義」などの俗称を紹介した上で、追い討ちをかけるように「オルタナ・ワッラー」と命名する。そして「ムスリム・コミュニティーは既にイスラム恐怖症、反テロ対策、白人至上主義の再台頭など、敵対的な環境に脆弱である」のに、さらに「レッド・ピル」との連携をされたらムスリムの女性はどうなってしまうのか、そういう影響がある「オルタナ・ワッラー」現象に注目してほしいという不思議な問題提起をしている。
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