バトラーの悲劇

 2024年の大統領選を4ヶ月後に控え、米国は選挙戦真っ只中であった。前月には待望されていた現職バイデン大統領と前職のトランプ大統領の討論会が行われ、バイデン大統領の老衰が白日の元に晒された。バイデン大統領を擁護してきた大手メディアも、流石に事態を重く見たのか、「トランプ打倒」を達成できる候補が望まれるという論調に転じた。7月13日、共和党大会での正式な指名が目前に迫る中、トランプ氏は激戦州とされるペンシルベニア州バトラー郡で演説台に立った。夏時間を採用する米国の昼は長い。午後6時になっても青空に浮かぶ太陽は燦々と会場を照らしていた。まさにトランプ大統領のお気に入りの赤い帽子が映える場面だ。

大群衆だ。美しい大群衆だ!

ドナルド・トランプ

聴衆が「USA」を連呼する中、トランプ大統領は上機嫌で演説を始めた。

何千人もの誇りたかき勤勉な愛国者がいるこの美しい州に戻って来れて嬉しい、そう、君達のことだ。

ドナルド・トランプ

このように聴衆を鼓舞すると、翻ってバイデン政権がもたらした移民危機に痛烈な批判を繰り出した。

 ちょうどこの頃、演説台から100メートルほど離れた屋根に登る不審な男が居た。灰色のシャツを着てライフル銃を持った二十歳の青年の名はトーマス・マシュー・クルックスだ。近くの人が警官に声をかけた。「おまわりさん、怪しい奴がいます!あそこです、屋根の上!」後にわかったことであるが、彼は車や自宅に爆発物を隠し持っていたという。どれほどの殺戮を繰り広げようとしていたのか、想像に難くない。しかし、トランプ大統領の演説は続いた。多くの聴衆は壇上のトランプ氏に釘付けだった。

 「MAGAは『アメリカを再び偉大にしよう』という意味だ」MAGA運動を止めるとするバイデン大統領をからかう。もしバイデン大統領が仕事を真面目にしていたら俺だって海辺でのんびりしていたのに、というのだ。「犯罪者だの、麻薬密売人だの、ここにいるべきではない人々がいる。」グラフを指し示しながら彼はさらに続けた。「それで、あのグラフはちょっと古いな。あれは数ヶ月前のもので、本当に悲しいものを見たいなら」と言いながらトランプ大統領は微かに頭を傾けた。「こっちを見てみろ…」

 その時であった。パン、パンと乾いた音が会場の空気を切り裂いた。米国が患う燻る狂気が爆発した瞬間だった。クルックスのライフルから発射された凶弾が、トランプ大統領の右耳を貫いた。咄嗟に耳に手を当てるトランプ大統領にシークレット・サービスの特別捜査官が叫んだ。「伏せろ!伏せろ!」しゃがみ込むトランプ大統領の頬を鮮血が流れた。クルックスはシークレット・サービスによって無力化され死亡したが、被害者はトランプ大統領だけではなかった。敬虔なキリスト教徒として知られた元消防団長コーリー・コンペラトーレ氏は、銃声を聞くなり同席していた家族を庇って覆い被さった。クルックスの凶弾は、コンペラトーレ氏の頭を貫通した。米国の、否、人類の美徳の真髄である信仰、家族、愛国心を体現したコンペラトーレ氏は英雄としてその一生を終えた。享年50歳であった。

 「さあ、車へ」促す特別捜査官にトランプ大統領は、「靴を履かせろ」と決然とした声で応えた。そして、なんとか壇上から下そうと必死な特別捜査官達を抑え、「待て」と声を掛けると、大柄なトランプ大統領の頭が特別捜査官の上に現れた。そして高々と掲げられた右手の後ろには、青空に翻る星条旗があった。この瞬間を収めたAP通信のエバン・ブッチ氏の写真は広く賞賛された。

 事件は米国は言うまでもなく、世界を震撼させた。米国の右派はトランプ大統領が一命を取り留めたことに安堵するとともに、家族を守って犠牲になった愛国者の死を悼んだ。わずか数ヶ月前に自らも暗殺未遂に遭って、1週間前に公務に復帰したばかりのスロバキアのロベルト・フィツォ首相がフェイスブックに投稿した声明は示唆に富んでいる。

筋書きはまるで丸写ししたかのようだ。トランプの政敵らは彼を投獄しようとするが、それがうまくいかないとなると、社会を煽りまくって、最終的にどこかのクズが銃を手に取るまで続ける。それなのに、これから我々は和解、寛容、赦しの必要性についての説教を聞かされる事になるだろう。

ロベルト・フィツォ

フィツォ首相の分析はあたっていたと言えよう。

https://www.washingtonpost.com/politics/2023/11/13/how-trumps-rhetoric-compares-hitlers/

 バイデン大統領も「熱を冷ます」必要があるなど述べたが、ついこの間までトランプは「存亡の危機(existential threat)」であり、ヒトラー同然であると喧伝していた左派が何を言っても空虚にならざるを得ない。いずれにしても左派支配体制は驚き非難する素振りは見せた。しかし、すっかり洗脳された左派の有名人達の言論は至っておぞましいものであった。

 例えば「テネイシャスD」の世界公演ツアーでは、バンドメンバーのカイル・ガスが誕生日のお願い事と称して「次はトランプを外すなよ」と発言した。ジャック・ブラックは、冷淡な発言に「不意を突かれた」として、テネイシャスDのワールドツアーの残りをキャンセルしたが、漏れた本心が変わったわけではあるまい。一方で、イーロン・マスクは本件に関連して死者を冒涜するような発言を繰り返していたストリーマー、デスティニーのツイッターアカウントを広告停止処分にした

 トランプ大統領の暗殺未遂事件は、長年にわたる緊張の高まりの集大成であり、アメリカの歴史に暗い日を刻み、民主主義の脆弱性と分断の深さを露呈させた。真のアメリカの英雄、コーリー・コンペラトーレの悲劇的な死は、リベラリズムの人的犠牲と、国民的清算の喫緊の必要性を明確に示すものであった。

 5日後の7月18日、トランプ大統領は共和党全国大会で演説のためウィスコンシン州ミルウォーキーに居た。共和党の大統領候補として正式に指名されたため、指名受諾の演説をするためだ。「全能の神の恩寵なくして私はここにいることはできなかった。」耳に白いガーゼを当てたトランプ大統領はいつになく真剣な口調で事件を振り返った。壇上にはコンペラトーレ氏の防火衣とヘルメットがあった。トランプ大統領はコンペラトーレ氏を「尊敬を集めた元消防団長」で周囲から愛された人として紹介した。「銃弾が飛び交う中」彼は自分の命を捧げて「人間の盾」となり、妻と娘達を護った事をトランプ大統領は鮮明に語った。「なんと立派な男だったことか」そう語ると、トランプ大統領は演壇を離れ、コンペラトーレ氏のヘルメットにキスをした。

 大統領選に向けて一丸となる共和党とは反対に、民主党は支持率が低迷するバイデン大統領の出馬を辞めさせるべく、頭を悩ませている。2024年の選挙は今や大きな影を落とし、恐怖と不信感で深く傷つき引き裂かれた米国に不確実性の亡霊が漂っている。米国は内政の危機を乗り越えるのか、それとも世界を巻き込んで第三次世界大戦に突入するのか。この出来事の長期的な影響を予測することは困難だとしても、一つ確かなことは、米国はこのままでは持たないということだ。

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