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『猫を棄てる』読了後に考えたこと

自分という存在があいまいになっていく感覚を知っている。いちばん幼い記憶の中それは、何処かの山へ行った時に体験したように思う。

私は生まれも育ちも大阪だ。母は大阪商人の家に生まれたが、18で大阪に出てくるまで北九州の海に近い田舎で育った父は、大阪に居ても自然の中に行くのが大好きだった。正確には可能な限り自然の中に戻りたかったのだと思う。

休みの日はいつも父の運転する車で家族で人里離れた場所へ出かけた。自然が好きなくせに父は車でしか出かけない。なぜなら彼は自分の運転する車以外の乗り物すべてで必ず乗り物酔いをするからである。実際、阪急電車で酔ったこともある。なのでもちろん仕事も車で通勤していた。(ちなみに酒は一滴も飲めない)

とにかく父は車に家族とキャンプ道具を乗せていろんな場所へ旅をした。山があれば登り、海があれば潜った。幼い私や兄、母を磯の岩場で遊ばせておいて、自分は颯爽と海へ飛び込み、サザエやアワビを獲って家族を喜ばせてくれることもあった(もちろん素潜りである)。
山に行けば険しい山道を、果てしなく続く(ように感じる)高原を黙々と歩く。そうかと思えば清流に沿って車を走らせ、日が暮れれば電気もトイレも何もない河原にテントを張って一夜を過ごす。きっと面倒くさいこともあったはずなのに私はそんな旅が嫌ではなかった。父がいつも楽しそうだったこともあるが、与えられた環境にいかなる疑問も持たず、そこにしかない楽しみを見出す能力は、神様が平等に与えた幼少期特有の才能なのだ。

自然の中に静かに身を置いていると、自分を取り巻くものたちの存在感がこの世のほかの何よりも圧倒的であることを感じずにはいられなかった。そしてその背景には莫大な時間の蓄積があることも、漠然とではあるが感じとっていたと思う。

厳密にいうと、自然の中にることと都会での暮らしとの対比の中に感じていたと言った方が正しい。なぜならいつも決まって、旅から大阪の家に帰ってきた直後に、自分という存在があいまいになる感覚を経験していたからだ。

大人になると、いろんな場面で存在の輪郭はぼやける。たとえば、壮大な宇宙の始まりやその物語に思いを馳せたとき。自分がこの世に生まれるずっと前に生きた人々の人生や歴史をたどるとき。

時間の蓄積が持つ未知数は空間的なそれよりも、私という存在の「ふちどり」にダメージを与える。

でも、この感覚はある種の癒しではないのか、とふと思う。自分の存在があいまいになる感覚は「わたしらしさ」に捉われる現代の人々が積極的に求めていきたい「安息」である気がしてならない。

なぜ急にこんなことを考えたのか。それは、村上春樹さんの『猫を棄てる』を読んだからである。
そして、これは決して読書感想ではない。
あくまで個人的な、ぼんやりした物思いの断片である。

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