幸せの基準に届かない
幸せを比較する
世の中には学校の偏差値と一緒で、幸せの統一的な基準があるんじゃないかと僕はいつも思っています。
彼氏彼女がいるとか、結婚してるとか、お金がいっぱいあるとか、ビジネスで成功しているとか、自分が成長しているとか。何かが多くあれば多くあるほど幸せという基準がどっかにあります。
そこの心底にあるのは他人との比較です。
人って他人と比べることでしかなかなか自分を成立できないものでして、「他人は他人、自分は自分」と言える人は実際そこまでいません。
僕はこの他人との比較をもって成立する幸せの基準がずっと満たせない人間です。
人より要領が悪く、性格は破綻気味。経済的な余力があるわけでもないし、別にイケメンでもない人間。他人とのコンプレックスをずっと持ちながら、「自分は生きている理由なんてあるのだろうか」と昔から思っています。
幸せでなければ生きちゃいけないとは言わないけど、幸せでない人生を生きる理由はどこにあるんだろう?と考えずにはいられません。
一般的な幸せに憧れ
幸せと感じるカテゴリーは人それぞれだと思います。ただ大体否定されづらい分野としては「家族」があります。
マクドナルドにて一人でいると、家族連れの人たちが続々と周りのテーブルを埋めていきました。多分、僕より年下のお父さん・お母さんが子供と笑いながら会話しているのを見て「これが世間の幸せなのか」と感じました。
世の中に幸せの偏差値があったなら、この隣の家族と僕ではどんな差があるのでしょうか。
旦那さんと嫁さんの有無、子供の有無、あればきっと幸せなんだろうなと思ってしまう自分。世間もそう判断するんだろうなと思っている自分。
もちろん友人の中には「結婚なんてするもんじゃない」「さっさと別れたい」と言っている人もいます。日本人の男性のうち、1/4は未婚で終わるデータもあります。
家族というカテゴリーで幸せを測るとして、たしかに世間一般で「家族がいる」=「幸せ」ではないことだってあります。
しかし自分には…いやおそらく一般的にも「家庭がある」=「幸せ」というなんとなくの基準があって、残念ながら今後も含めて持ち合わせないであろう自分がとにかく駄目な気持ちに苛まれるものです。
平均的な幸せが安心感を得るのか?
こんな比較論争を続けていたってろくでもない結果になるのも、なんとなくわかります。幸せの基準有無はとりあえず置いとくとしても、突き詰めていった先には上には上はいるし、下には下がいるからです。
「自分より幸福な人がいるから自分は落ち込むのか」ということは「自分より不幸な人がいれば自分は安心するのか」ということと一緒ですよね。ある種、僕は正しい話だとは思ってますがその結論を出したところで虚しさしかありません。自分の立ち位置が変わることがないからです。
わかっているからこそ、自分は平均的でありたいと(少なくとも僕は)思いがちです。ちょっと言葉にはしづらいのですがどんな相手にも勝たないし、負けない位置というべきか。
なんとも日本人らしい人間になってしまったもんだなと感じます。
もちろん、心の何処かではわかってるような気がします。こんな考えは絶対間違っていると。
ただ幸せの比較をすることから逃げるためには常に平均であるほうが気が楽になるのです。誰かに蔑まれることもなく、勝ち誇るわけでもなく、ただただ幸せの平均点であることへの安心感がほしいのです。
これって、ようは比較する・されることに疲れるから比較しない立場になりたいだけなんだよなぁ…と気づいたのは本当最近の話でして、あながち間違ってないような気もします。
あー、こりゃ東京のサラリーマン生活には合ってないような気がするなぁ。
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