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【第三世代フェミニストの弾薬庫】「自分で自分を再プログラミングする」とは?

元来、古の時代に異郷で起こった事についてちゃんと伝えるには、当時の前提条件を列記しないといけません。まさしく機械学習理論における分布意味論とか、人格心理学における語彙仮説とかの次元の話ですね。

なんと(男性と異なり)脳の意識的な興奮と、体の無意識な(あるいは半無意識な)興奮は必ずしも一致するとは限らず、どうやらその連携内容自体がある種の学習によって形成される様なのです。

なんだか機械学習アルゴリズムを支える分布意味論とか、人格心理学のビッグファイブ理論を支える語彙仮説といった最新展開に結びついてきそうな話だと思いませんか?

こういう話を2010年代Tumbrに陣取っていた第三世代フェミニストの姉様達はポジティブに捉え「自分の性壁を自分の思い通りにデザインしよう!!」と気炎を上げていた訳です。

上掲「位相幾何学だよ、ワトソン君」

ここに登場する「自分で自分を再プログラミングする」なる考え方はどうしてこうもすんなり通ったのか。それはヒッピー世代から伝わるティモシー・リアリー博士提唱の以下のメソッドに由来するのです。

ティモシー・リアリー博士提唱のメソッド「Turn On,Tune In,Drop Out」

Turn on

"'Turn on' meant go within to activate your neural and genetic equipment. Become sensitive to the many and various levels of consciousness and the specific triggers that engage them. Drugs were one way to accomplish this end.

「Turn on」というスローガンで主張したいのは(「RAVEせよ(自分に嘘をついてでも盛り上げよ)」という話ではなく)「(自らを包囲する外界に対するさならるJust Fitな適応を意識して)自らの神経を研ぎ澄まし、生来の素質を磨け」という事である。あらゆる状況に自らを曝せ。そして自分の意識がどう動くか細部まで徹底して観察し抜け。何が自分をそうさせるのか掌握せよ。ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない。

解題:
「ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない」…実際、当人も後に「コンピューターによる自らの脳の再プログラミング」の方が有効という結論に至った訳だが「訓練手段」としてゲームを選択した場合「汚れた街やサイバースペース(cyber space)への没入(Jack In)」も「デスゲーム(Death Game)に巻き込まれる事」も「異世界に転生する事」も手段として完全に等価となるかが難しい。

上掲「Velvet Underground的方法論とTimothy Leary的方法論の対比」

Tune in

'Tune in' meant interact harmoniously with the world around you - externalize, materialize, express your new internal perspectives. Drop out suggested an elective, selective, graceful process of detachment from involuntary or unconscious commitments.

「Tune in」というスローガンで主張したいのは(「内面世界(Inner Space)の完成を目指せ」という話ではなく)「新たに掴んだ自らの内面性を表現(Expression)せよ」という事である。自己感情を外在化し、具体化し、それでもなお自らを包囲し拘束する現実と「調和」せよ。

解題:
「Tune in」は「Turn in」とほぼ同義。ここで興味深いのはどちらにも「警察に届ける(問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う事)」というニュアンスが存在するという点。そして直感的には「in」の対語は「out」となるが「Turn out」とは「自らを包囲し拘束する現実」を「全面否定して引っ繰り返す」あるいは「諦念を伴って全面受容する」事。「Tune out」とは「黙殺を決め込む」事。だがあえてティモシー・リアリー博士はこうした選択オプションを嫌い「自らを包囲し拘束する現実」を突き抜けた向こうに「外側(Outside)」は存在しない(あるいはどれだけ無謀な進撃を続けても「現実」はどこまでも付いてくる)とする。無論(自らも専門家の一人でありながら)「問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う」という選択オプションも許容しない。マルコムX流に言うなら「誰も人に自由、平等、正義を分け与える事は出来ない。それは自ら掴み取る形でしか得られないものなのだ(Nobody can give you freedom. Nobody can give you equality or justice or anything. If you're a man, you take it. )」、日本流に言うなら「誰にも人は救えない。それぞれが勝手に助かるだけだ」といった感じ?

上掲「Velvet Underground的方法論とTimothy Leary的方法論の対比」

Drop out

'Drop Out' meant self-reliance, a discovery of one's singularity, a commitment to mobility, choice, and change.

「Drop Out」というスローガンで主張したいのは「(本当の自分自身であり続けるために)現実社会から離脱せよ」という話ではなく「自立せよ」という事である。再発見された自らの個性に従った動性、選択、変化に専心せよ。

解題:
「Drop Out」は「Get off」とほぼ同義。ここで言いたいのはおそらく「解脱(Turn out)せよ」という事で、まさに「縁(自らを包囲し拘束する現実)からの解放」を主題とした原始仏教における「解脱」の原義はティモシー・リアリー博士の説明とぴったり重なる。ちなみに「Drop in」は「突然ぶらりと立ち寄る事」で、「オトラント城奇譚」作者として知られるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語「セレンディピティ(serendipity、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)との関連が認められる。「Get on」は「大き力に便乗する事(そしてそれによって成功を収める事)」。

上掲「Velvet Underground的方法論とTimothy Leary的方法論の対比」

総論

Unhappily my explanations of this sequence of personal development were often misinterpreted to mean 'Get stoned and abandon all constructive activity.'"

残念ながら、こうした私の自己発達に関する言及は「ドラッグでラリって建設的なすべての行動から遠ざかる」というように誤解されている。

上掲「Velvet Underground的方法論とTimothy Leary的方法論の対比」

ティモシー・リアリー博士はヒッピー全盛期に「メスカリンを使った意識拡張」を喧伝してヒッピー達の導師(グル)的存在に成り上がった人物ですが、1980年代に入ってパソコンの普及が始まるとドラッグ方面からキッパリと足を洗い「コンピューターを使った自分自身の手による自分自身の再プログラミング」を主張する様になりました。その切り替えの為に、こういうディスクールを必要とした訳です。
ティモシー・リアリー「神経政治学(Neuropolitics,1977年)」

それでは、こういう歴史を持たない日本文化は全く見込み薄かと思いきや、あら不思議。日本の漫画アニメGame文化はさらりと「正解」を突きつけてきたりするのです。

必要最小限の箇所だけ粗筋を抽出すると、忍びの里でそれぞれ「殺人マシーン」と「子を産む機械」として育てられた忍者「がらんの画眉丸」とその妻結(ゆい)が「普通を取り戻す戦い」を完遂する物語。戦い方はそれぞれ異なり、画眉丸が地獄の島からの仙薬奪取任務に従事したのに対して、その妻結(ゆい)は、例えば「(普通の人間の様に)栗ご飯を美味しく感じられる様になる事」といった目的を掲げたのでした。

「地獄楽」12巻
「地獄楽」12巻
「地獄楽」12巻

そして地獄の島で全身ズタボロになりながら、画眉丸は「こんなの結の戦いに比べればまだまだだ」と回想します。

「地獄楽」12巻
「地獄楽」12巻
「地獄楽」12巻
「地獄楽」12巻
「地獄楽」12巻

かかる「栗ご飯が美味しい」という言葉に自分の内蔵感覚を対応させていく作業こそが「自分で自分を再プログラミングする」行為そのものという訳ですね。とりあえずの出発点はここ。そんな感じで以下続報…

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