元来、古の時代に異郷で起こった事についてちゃんと伝えるには、当時の前提条件を列記しないといけません。まさしく機械学習理論における分布意味論とか、人格心理学における語彙仮説とかの次元の話ですね。
ここに登場する「自分で自分を再プログラミングする」なる考え方はどうしてこうもすんなり通ったのか。それはヒッピー世代から伝わるティモシー・リアリー博士提唱の以下のメソッドに由来するのです。
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総論
ティモシー・リアリー博士はヒッピー全盛期に「メスカリンを使った意識拡張」を喧伝してヒッピー達の導師(グル)的存在に成り上がった人物ですが、1980年代に入ってパソコンの普及が始まるとドラッグ方面からキッパリと足を洗い「コンピューターを使った自分自身の手による自分自身の再プログラミング」を主張する様になりました。その切り替えの為に、こういうディスクールを必要とした訳です。
ティモシー・リアリー「神経政治学(Neuropolitics,1977年)」
それでは、こういう歴史を持たない日本文化は全く見込み薄かと思いきや、あら不思議。日本の漫画アニメGame文化はさらりと「正解」を突きつけてきたりするのです。
必要最小限の箇所だけ粗筋を抽出すると、忍びの里でそれぞれ「殺人マシーン」と「子を産む機械」として育てられた忍者「がらんの画眉丸」とその妻結(ゆい)が「普通を取り戻す戦い」を完遂する物語。戦い方はそれぞれ異なり、画眉丸が地獄の島からの仙薬奪取任務に従事したのに対して、その妻結(ゆい)は、例えば「(普通の人間の様に)栗ご飯を美味しく感じられる様になる事」といった目的を掲げたのでした。
そして地獄の島で全身ズタボロになりながら、画眉丸は「こんなの結の戦いに比べればまだまだだ」と回想します。
かかる「栗ご飯が美味しい」という言葉に自分の内蔵感覚を対応させていく作業こそが「自分で自分を再プログラミングする」行為そのものという訳ですね。とりあえずの出発点はここ。そんな感じで以下続報…