【インターネットと政治】コロナ禍が可視化した「伝統主義者集団の復興」?
今回の出発点はこの投稿。
かかる「票田」は、おそらくコロナ自粛期(2020年~2023年)に形成されたのではないかと考えております。
「無限脱毛育毛ケモナー列車」なる原風景(2020年~2021年)
当時の私のはてなブログにおける過去投稿を振り返ってみましょう。
2020年11月、コロナ期を特徴付ける広告自主規制のせいで電車内の車内吊り広告は、そのほとんどが脱毛・育毛広告一色となった。背景には「外出機会激減によるムダ毛処理を怠る女性の増加」「コロナ罹患の症状の一つとして発表された薄毛化への不安の高まり」を背景とする不安を煽る商法の密かな流行があったと推察される。
この年には劇場版「鬼滅の刃」無限列車編(2020年)の大ヒットがあったので、当時の私はこの現象を「無限脱毛育毛列車」と呼んでいる。ただし、クリスマス以降は(外出出来ない人々を狙った)書籍宣伝ラッシュが始まり、この状況が少しは緩和した。マーケティング業界においては、こうした一連の展開を「巣篭もり需要の増大」と表現する。
私の観測範囲では、こうした状況を背景にさらにプラモデル産業の中興なども確認されている。また2016年よりサービスを開始したUber Eatsが急速に市民権を得たのもまたこの時期であった。ただし当時は「コロナ自粛」の時代であり、そうした展開を報道する事すら自粛されてた 時期なのでリアルタイムにフィードバック効果を引き起こす事はなかった。
当時あえて逆張りして大成功を収めたのがケモナー御用達スマホゲーム「アークナイツ(明日方舟、Arknights; 2019年~)」の日本語版サービス開始のキャンペーンであったが、その成果が発表されたのは翌2021年も後半に入ってから。マーケテぅング用語では、これまた巣篭もり需要を拾った成功例の一つとなるのだろうが、かくして電車内吊り広告の世界においてケモナー産業が思わぬ形で脱毛育毛産業と結び付けられる展開に。
なおコロナ自粛へのフラストレーションの高まり自体は、すでに女性ファッション分野でも路上観察されていた。例えば2021年初頭からのシフォンドレイヤースカート、(モノトーン系やアースカラー系に対抗しての)イエロー系からオレンジ系にかけてのビタミンカラーやレプラコーングリーンの流行など。そしてコロナ自粛が解除された2023年5月以降「カンブリア爆発」的大崩れが始まったが、表現自粛期に過剰適応したマスコミは、今の所この展開についてフィードバック効果を引き起こせていない。
一方、こうした世相は「かかる自粛モードに過剰適応する伝統主義者グループ」も生み出してしまった可能性が高いのです。
「破瓜期」の到来(2022年~現在)
ここでいう「破瓜」は「冬季積雪の重みに耐え続けた建造物が、その過程でボロボロとなり、春の到来による雪解けによってむしろその支えを失った事で自重を支え切れなくなり倒壊する」イメージ。
上掲の2024年4月時点における投稿の発端は以下のポスト。
いわゆるツィフェミが当時ますます暴走状態に陥っていた状況が背景にあっての発言。
これについて私は上掲の展開を例示して「考現学的には広告業界がコロナ以前の多様性を取り戻してない事が問題」と指摘した訳です。
考え方としては①ここ数年コロナ対策と経済停滞による広告の激減が継続し、②かかる殺伐とした景色に適応する人々が現れ、③緊急事態宣言明けと経済活動再開に伴う広告量復帰自体が激烈なアレルギー反応を引き起こしつつある、といった構造。おそらく①東北大震災(2011年3月11日)の影響で長年に渡って原発が停止し、②原発が停止している状況に適応する人々が現れ、③「原発の運転を再開するかもしれない」という情報だけでアレルギーを起こし、感情が制御出来ない状態に陥ってしまうメカニズムと同じ。というか、どちらも同じタイプの症状である可能性が高い。
そういう「対象との関係構築能力が怪しく、環境変化を引き金に感情を爆発させてしてしまう人達」の発言内容を細部まで吟味していくと、究極的には「いつでも何処でもジョン・レノンが俺の脳内に押し入ってくるんだ。これはもう殺したって正当防衛だよね」式の短絡思考に集約していく。実際には(精神医学的には薬物療法で対処する様な次元での)現実検討能力不足が諸悪の根源という訳である。
手塚治虫「罪と罰」(1953 年)における表現様式の相克
一見全く別の事案と映りますが、その背景に「自他境界の破綻=任意の対象を告発する主体としての自分と、告発される客体としての対象の合理的な関係性構築に失敗した」状況が透けて見える点は共通しています。
いわゆるツィフェミと実際にTwitter(現X)で接した事がある人なら誰でも経験した事があると思うが、彼女らもまた①いきなり脊髄反射的に感情を爆発させ、攻撃性を剥き出しにして罵詈雑言をまくし立てる。②次いで「これは普通の人間なら誰でも抱いてる感情で、私個人の考えではない(共感出来ないお前らこそが異常者)」「普通の人間ならちゃんと我が身を振り返って反省して絶対に言い返してこない(そうしないお前らこそが異常者)」「立場が逆ならお前も私の様に振る舞った筈だ。それが想像出来る人間なら絶対に私を非難しない(その考え方に到達出来ないお前らこそ異常者)」なる自己弁護を無限往復するばかりである。そういえば京アニ放火事件の犯人も「被害者には申し訳ない事をした」と供述しつつ、その感情を「自分がしたのは正当防衛」と確信する感情と折り合わせる事を最後まで思いつく事はなかった。報道は「妄想に拘泥しつつも、最後には遺族に謝罪した」などとキレイにまとめてしまったが、「心の中に殺しても殺しても無制限に許してくれ続け、それどころか称賛を絶やさない便利な小人を飼っている様なもの」なる一点において、かかる人々がジョンレノン射殺犯と「陸続きの精神状態」にある事実は動かない。
もとより個人が個人単独でこのレベルの「常識からの逸脱」に到達するのは至難の技ですが、部分的にでも意見を共有する仲間が集まって集団を構成する様になれば話が変わってくるという…
ましてや雑誌へのペンネームでの投稿やSNSにおける匿名アカウントでの振る舞いとなれば自他境界はさらに曖昧なものとなってくるのです。
この手の現実拡張手段と無縁だった前近代までは伝統的地域共同体が良い意味でも悪い意味でもその問題の統制を担っており、それが貨幣経済浸透や産業革命導入によって崩壊すると、それに代わる新たな秩序を研究する分野としてフランスやドイツに社会学が勃興しました。その一方でマルクス主義の形骸化が進行した20世紀後半に台頭した「新しい社会運動」を標榜する活動家達はこうした層の政治的動員を考える「極左冒険主義」の世界に足を踏み入れてしまった感があります。
「各生活者の自然な直感をあえて全面肯定する政治」には、思わぬ欠陥が存在する。そう、究極的にはカール・マンハイム(Karl Mannheim,1893年~1947年)が「保守主義的思想(Das konservative Denken,1927年)」の中で指摘した「(フランス革命とナポレオン戦争の時代以降、欧州政治で主流となった)ある側面が進歩主義的で、残りの部分が保守的である様な人々の意見の擦り合わせによる合議体制」を「(過去の栄光ばかり有り難がる)伝統主義」に退行させようとする動きに屈服してしまうのである。どうしてそうならざるを得ないかというと、近代国家の根本たる法実証主義(Legal Positivism)を否定する事そのものが、そのまま中世以前の「(各集団が勝手に自分達だけが神の声に従っていると主張し、一切の調停を拒む)自然ほうの世界」への回帰を意味するからである。
この種の議論は「狂気こそが人間を権威主義体制から解放して自由をもたらす」なる立場から「狂気の歴史(Histoire de la folie à l'âge classique,1961年)を発表したミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926年~1984年)が「少なくとも近代医学成立以降、人類は狂気について人間を解放するどころかその個性を奪い特定の症状類型に嵌め込む拘束具と考える様になった」と気付き、全く新しい観点から「監獄の誕生(Surveiller et punir, Naissance de la prison, 1975年)」を発表した時点で終了したと思っていたのですが、案外そうでもなかった?
そんな感じで全体像が俯瞰出来た時点で以下続報…
【追伸】トランプ氏銃撃事件
マジですか…
この投稿シリーズや以下の投稿シリーズ「米国の政治的分断」も視野に入れた展開なのですが、まさか本格的説明に入る前に現実にこんな事が起こってしまうとは…以降の投稿内容に調整を入れなくてはならなくなりました。
そんな感じで改めて以下続報…