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【とある本格派フェミニストの憂鬱3パス目】こんにちは、そしてさよならナチズム

以下の投稿で2010年代「既存活動家の思考様式」がネット社会に通用しなくなり無相関となっていく様子を自分の目に映ったなりに活写してみました。

一言でまとめるなら「SNS社会化に対する既存活動家の思考様式が限界を露呈した」という事です。

各個人が複数のSNSアカウントを使い分け、それぞれのSNSが「独自社会」を構築するSNS社会は全単車(bijection)ではない。
単射(Injection)でも全射(Surjection)でもないという事
このグラフ構造はベン図でも表す事が出来る。
なお上掲のベン図は位相幾何学的にいうとそれぞれ2次元の場合に正方形の頂点と二次方程式、3次元の場合に立方体の頂点と三次方程式の概念と一致する。

こう考えると以下の投稿との関係も浮かび上がってきますね。そう「マーク・ザッカバーグの人間関係空間論」における「SNS社会上に構築されるノード関係は実社会における人間関係空間の全単射となる」という想定もまた同じ理由で早期撤回を余儀なくされたという訳です。

ところでこうして「全てが数理に従って進行する」という立場に立つと必然的に浮かび上がってくる思考上の限界があります。①ここでは二次元の場合と三次元の場合について考えたが、我々は数理自体というより、カンブリア紀爆発(Cambrian explosion,5億4200万年前~5億3000万年前)に獲得した視覚と視覚情報を処理する脊髄で考える生物という制約からそれ以上の空間認識を直感的に扱えない。②集合全体を集合論的に扱うには集合の最後が空集合であると想定しないと色々不都合が出てくる(CWA=Close world assumption=閉世界仮説)。

具体的問題解決の現場を想定するなら①数ある手持ちアプローチのうち最も見込みの大きそうなアプローチを3個選び、とりあえず他の可能性は忘れる(これで上図の立方体構造で考えられる)。②さらに一次元削減して二次元で考えられる場合が3通り1/2ずつある(成功すれば上図の立方体構造で考えられる)。③そもそもどのアプローチも問題解決に役立たない確率が1/8ある(予備の手持ちアプローチの出番)といった感じでしょうか。最近は小学校から教えているというPPDACサイクルとの相性が良さそうなんです?

さらには問題解決に至るイメージ、オイラーの多面体定理の証明にも登場する「多面体の面を1つ選んで,その面を取り除き,その穴から手を突っ込んで押し広げ潰しながら対蹠まで突き抜ける」概念で捉える事も出来そうです。

刷新? それとも顕密体制への移行?

上で見た様に「既存活動家の思考様式」は、各個人が複数のSNSアカウントを使い分け、それぞれのSNSが「独自社会」を構築する時代に「個人」の概念を一切拡張しようとしないアプローチの限界を露呈しました。その結果、彼らの活動範囲は次第にSNS社会の外側へと追いやられる展開を迎えたのでした。より具体的には、以下のような既存用語をSNS社会化にどう対応させるかから再出発しないといけないんじゃないでしょうか。

ただしこの流れには「バリケードの内側に留めるべき妄言が外部流出した結果としてのSNS社会の反感の高まり」を予防するというポジティブな側面もあるのかもしれません。ある種の顕密体制の構築? 逆サイドからすれば「危険な兆候を事前にチェック出来ない」という話に。そう、ここでいう「顕密体制」とは日本史でいう重厚な顕密体制論とは無関係。むしろ「道理を弁えた少数精鋭のエリートが権力を独占する寡占支配」すなわちオーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui,1805年-1881年)の一揆主義(Putschism)の様なものを想定しています。中世的秘密結社炭焼党(イタリア語Carbonari, フランス語Charbonnerie)出身の彼は、ある意味「正しい政治的判断が行えるのは神に選ばれ真の知恵を習得した少数のみで、その才能は任意の第三者に移譲不可能」なる神秘主義的確信を生涯維持し続けたのでした。

なおオーギュスト・ブランキは「天体と永遠」の中で宇宙に無限反復性を見出し革命運動を重ねますが(「世界旅行者」イブン・ハドゥルーンのアサビーヤ論やフレイザー牧師の王交代論を想起させる)、実はそもそも円軌道を基礎付けるオイラーの公式(Eulerien Formula)$${e^{iθ}=cos(θ)+sin(θ)i}$$そのものが①ネイピア数e(2.71828182…)もπ(3.1415926…)も無理数なので式$${e^{iθ}}$$は求めた精度に対応する回数しか円は描かない(全体としては螺旋運動)。②それでは困るので正確に円軌道が扱える式$${cos(θ)+sin(θ)i}$$で代替する(複素関数における正規化=$${e^0=1}$$の正確性の維持)という感じで、その考え方自体は数学というよりむしろ(オーギュスト・ブランキの様な無政府主義者が大嫌いな)資本主義的発展や主権国家成立を支えてきた期間会計の概念に由来するのです(そもそもネイピア数e自体が複利計算の発展形)。

ネイピア数eの精度が低いと楕円しか描かない。

どうしてそんな展開に? 近世には欧州の絶対王政にせよ日本の江戸幕藩体制にせよ「主権国家体制(国体保全に十分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制による徴税で賄う構造)」にせよ権威を国家に一極集中し、それを家庭の様な末端まで行き渡らせる必要がありました。そこを突いて欧州の急進共和派や政治的ロマン主義者達は「(末端の家父長制を含む)国王と教会の権威」への宣戦布告を気取った訳ですが、1848年革命を経て産業革命の本格導入が始まると、さっさと旧アプローチに見切りをつけて別理論に乗り換えた「共産主義理論の父」カール・マルクス(Karl Marx, 1818年-1883年)や「社会民主主義理論の父」フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle, 1825年-1864年)を除いて、そのほとんどが歴史の掃き溜め送りとなってしまいます(元々資産家だったフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820年-1895年)も実家の工場を継承。引退して年金生活に入るまで雌伏)。現実のフィードバックが間にわわない理論の末路は大体そういう感じで「無限反復」なんて夢のまた夢…

カール・シュミットの「友・敵関係」論

ところでここでいう「既存活動家の思考様式」は概ねカール・シュミット(Carl Schmitt、1888年〜1985年)の政治哲学とも重なります。①政治的なるもの(Der Begriff des Politischen、1932年提唱)は客観的公共性からでなく私的義憤から出発する。②それは友・敵関係(Freund-Feind Verhältnis)を創設する。③友・敵関係の追求は最終的に例外状態(Ausnahmezustand)に到達する。問題はこの考え方が「ナチズム擁護論」の一つとして採択された事。

どうしてそんな結末を迎えてしまったのでしょうか。シュミットはまず選挙で選ばれた議員それぞれは所詮「政治の素人」に過ぎず、そんな輩に政治は任せ得ないとして議会制民主主義を批判します。フローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」に活写される1848年革命後の四月普通選挙の景色の中で市民が口々に「選挙で選ばれるのは地主や砂糖大根栽培農家や商店街などの利権を代表するだけの烏合の衆ばかり!!」と豪語する場面と重なりますね。当時のフランスではこの雰囲気が第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)登場を容認する空気の醸成へとつながっていきます。

さらにシュミットは政治家の仕事は「純粋に政治的なるもの」の追求と規定。それは単なる美学性や道徳性や合法性や経済性それぞれの追求を超越した「友敵原理」すなわち「(個人的な感情発露や心理的表現、経済上の競争を超越した存在的他者・異質者への排斥原理に立脚する)敵」と「(これに対抗すべく団結し同化を果たしていく)友」の区別から出発しつつ、次第に「友」を同化し、最終的には国家そのものに対してのみ直接責任を負う「例外状態(Ausnahmezustand)」を現出させるプロセスとしました。確かにこれは「既存活動家の思考様式」であると同時にナチズム? しかしそもそも「ナチズム」とは一体何?

「敵友理論」の図式化。位相幾何学的には19世紀欧州の急進共和派の破滅過程と何ら変わらない。それどころか「最終的大道状態」を重視するあまり「敵(第三者)をオルグして友(同化対象)に」「裏切り者の粛清」といった苛烈な要素が追加されている。

ピーター・ドラッカーのナチス批判

オーストリアの名家出身で、実際にナチスからの迫害を受けて英国への亡命を余儀なくされたピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker, 1909年-2005年)の考えに従うなら、そもそもナチスにとってはカール・シュミットの友・敵関係論はおろか、ムッソリーニのファシズム理論も、、ゾンバルトのドイツ精神救出論もニーチェの超人論も全て行き当たりばったりの借り物だったに過ぎず、それぞれの細部に踏み込む意味がありません。

むしろナチズムの本質はサム・ペキンパー監督の戦争映画「戦争のはらわた(Cross of Iron,1977年)」に分かりやすい形で現れているとも。舞台は1943年の東部戦線。そこでユンカー出身の将校(演マクシミリアン・シェル)と叩き上げの軍曹(演カート・コバーン)が対峙しますが、前者はヒトラーを「職業軍人の既得権益を守ってくれる庇護者」、後者は「職業軍人ばかりがいばりくさっている軍隊の改革者」と信じ込んでいるのです。要するに八方美人に振る舞いつつ現実の面倒臭い利害調整に取り組む気なんて最初から持ってない…いやむしろ逆に現実の面倒臭い利害調整に取り組む気なんて最初から持ってないからこそ八方美人に徹せられる…もしかしたらこれって完全に「詐欺師の振る舞い」なのでは?

この観点からすれば「独裁=指導者原理」ですらナチズムの本質ではなかった事になります。例えばディズニーランドは各ワールドがそれぞれ別の客層を楽しませつつ、互いを意識させない設計に特化しています。それでもディズニーランドとしてのアイデンティティが保たれているのは、どのワールドからも遠景にシンデレラ城が望める構造のせい。政治の世界に照応を求めるなら古代中国に「鼓腹撃壌」の概念を刻んだ黄老思想、広大な領土と多数の民族を緩やかな支配下に置いたモンゴル帝国に(網野善彦「異形の王権」によればこれを見習おうとしたとされる)後醍醐天皇の建武の新政あたりでしょうか。ところが多種多様な甘言を弄されて集められ、絶えず行き当たりばったりの展開に振り回され続ける「ナチスの民」にとって信頼出来るのはヒトラー総統のお墨付きのみ。それで結果として(特に色々と窮乏が進んだ戦時下において)ヒトラーにばかり権限が集中していっただけとされています。そう、ディズニーランドでは各ワールドが遠景としてのシンデレラ城の景観を共有するだけですが、「ナチス支配下の世界」ではロクな手入れを受けられない各ワールドの廃墟化が進めば進むほどシンデレラ城=ヒトラー総統の威光が相対的に輝きを増していく地獄絵図…

この様に「ナチズムの本質は詐欺師」と考えるとピーター・ドラッカーがその特徴を「正義の絶対的批判者の仮面を被りつつ、自らへの言及は決っして許さない」「対立を超えて問題を解決する代わり問題が解決しない責任を対立陣営に押し付け、解決しない問題についてひたすら怒り続ける」「被害者の立場に立つ事で相手の口を封じようとする」「いかなる間違いも失敗も認めず、非難も一切受け入れない」と要約した理由が良く分かります。おや、またしても「既存活動家の思考様式」と内容が被ってしまった様なんです?

詐欺師の仮面の裏側で進む人格的荒廃

この手の話で思い出すのが、とある北朝鮮系ネット工作員の話。あらかじめ断っておきますが、tumbr全盛期(2010年代前半)にとある韓国系アカウントから又聞きした話なので情報信頼度もその程度と思ってください。一緒に「tumbrにおける北朝鮮系ネット工作員の足跡」を追ってたのですが、私が2000年代(事実上北朝鮮系工作員に乗っ取られて間も無く閉鎖された)中央日報掲示板(翻訳機能はなく日本語版とハングル版が完全分離)で北朝鮮系ネット工作員らしき人物の書き込みを目にした事があると書き込むと、彼も別の掲示板でやり取りした事があると言い出したのです。

一番印象に残ったのは以下の発言だったとの事。「私にとって貴方は単なるモニターの向こう側のデータの一つに過ぎず、おそらく一生直接会う事はありません。ゲームキャラと同じ。何をしても心が痛まないどころか、顔見知りの相手には絶対出来ない様な事が何だってやれてしまうのが楽しくて仕方がありません。貴方は違うっていうんですか? そんな筈ないでしょう。同じ人間ですよ?」確かに私が中央日報掲示板で見掛けた「北朝鮮系ネットワーク工作員っぽい人」も、こんな具合に思わぬ箇所で自由主義圏の人間らしからぬ発言が混ざってきたものです。
ロシアの影響工作(Influence Operation)

米国及び周辺諸国の脅威に対し、独特の安全保障観をもつロシアでは、近年、確実な安全保障を求めて、非軍事・軍事のあらゆる手段をもって戦う「ハイブリッド戦」という戦い方を模索している。このハイブリッド戦の根底には、中国の人民解放軍将校(喬良大佐及び王湘穂大佐)が1999年に打ち出した「超限戦」という戦略があるのではないかと言われている。

ロシアは、従来から保持している固有の安全保障戦略とこの「超限戦」とを比較・研究し、戦略文書としてその内容を取り入れたのではないかと見られている。ロシアの「ハイブリッド戦」という戦い方が、文書として対外的に初めて明らかになったのは、2013年2月に、ゲラシモフ参謀総長が発表した安全保障論文「先見の明における軍事学の価値」と言われている。その戦いの中核となっているのは非軍事手段の「影響工作(Influence Operation)」
を中心とした情報戦である。この戦い方は、第7の領域(認知領域)での戦いとも表現でき、従来では体系的にカテゴライズされていなかった領域での戦いとも言える。

上掲「ロシアの影響工作(Influence Operation)

ちなみに当時は「日本人は今でも東南アジアからこっそり幼児を輸入して食べてる現役人喰い人種だ。だから世界中で人間なんて思われてない。私の街では見つけ次第みんなで殺してる」みたいなデマを英語文面で大量投稿流してるのが北朝鮮系ネット工作員の仕業と目されていて、(上掲の韓国系アカウント曰く)実際中南米や中東やアフリカ辺りの政情不安定な地域で何人か殺されたという噂もあったものの、もちろんそんな危険な場所に日本人が赴く筈もなく、実際に殺されたとすれば中国系や韓国系や(あり得ない事に)北朝鮮系の「素性の怪しい商人」ばかりだった可能性が高いとか。しばらくしたら急にその種の「あまりにも低レベル過ぎる」プロパガンダ投稿はぱったり絶えましたが、北朝鮮の場合、失敗が発覚しての中止なら三族まとめて生きたまま高射砲や迫撃砲弾や機関砲の標的にされたり、軍用犬の餌にされた可能性もあるとの事。そうやって自分の命も軽く扱われる上、作戦が成功しても「金日成バッチ(江戸幕藩体制下での用具拝領同様極めて名誉な事とされ、相応の特権も付帯するらしい)」がもらえる程度では「モニターの向こう側への加虐」に精神依存する様になるもの仕方ない事なのかもしれません。他に北朝鮮系ネット工作員の関与が疑われたのは①セオウル号沈没事故(2014年4月16日)に際して、その悲劇を悼む投稿に乱入して「お前ら帝国主義者どもに我々の悲劇を悼まれる筋合いなんてない‼︎まずお詫びと補償が先だろうが‼︎」などと暴れるアカウントが続出。ただしこれは親北派韓国人が勝手にやった事かもしれない。②KKK関係者から「もちろん我々は、劣等民族たるアジア人が違いに殺し合ってその数を減らすのは大歓迎だ。だがその下らない争いに俺達を巻き込むな」と宣言されてしまう。詳細は不明だが、どうやらネットだけでなくヒューミント系の人脈まで利用して「差別主義者の白人に日本人を襲わせる」計画が頓挫したらしい。③隙あらば韓国と北朝鮮の一体性をアピール。「朝鮮戦争(1950年~1953年)の最中すら、我々は密かに連絡を取り合っていたのだ」。こんな愚にもつかない嘘すら、韓国と北朝鮮の区別もつかないアメリカの若者は信じてしまう様なんです?

ある段階からこの手の情報を追うのはすっぱり辞めました。目を通された方はお気付きになったと思いますが、追えば追うほど精神汚染される様な嫌な感触があるのです。その上「もしかしたらそうやって色々親切に案内してくれる韓国系アカウント自体がネット工作員、いや下手をしたらJoke Account?」と疑い出してしまったからです。まぁ所詮は匿名SNSサイトなのでその気になればどんな偽造投稿も可能。北朝鮮系プロパガンダには(日本人をやたら人喰い人種にしたがる)参照ソースや言い回しに独特の特徴があって、それが使われるか使われてないかが重要な判定基準となるのですが、この辺りに詳しい人間は偽造も容易という訳です。そういえば、こんな記事もありましたが…

その影響自体は全然感じませんでした。主体思想論法やマルクス主義への言及同様、単に封じてただけかもしれないのですが。

そういえば冒頭近くの「私にとって貴方は単なるモニターの向こう側のデータの一つ」発言で思い出したのがイザベラ・バード「朝鮮紀行(Korea and Her Neighbours, 1894年-1897年)」における閔妃との面会場面。快活に笑い、案外普通の女性に見えましたが、臣民については単なる数字の様な抽象的な形でしかイメージ出来なかったとの事。暗殺を命ずる定型句に「偏見の極みをもって抹殺せよ」というのがありますが、非道の出発点はまずそうやって「相手を同じ人間として認識しなくなる」事なのかもしれません。

「ドラッカーのマネージメント論」

この様にネガティブな共感を集めた結果生じる推力は下へ下へと向かいます。その過程で起こるのが「悪魔合体プロセス」。①嫌悪対象は一瞥しただけで脊髄反射的に悪のレッテルを貼って排斥する(自然観察次元)。②嫌悪対象について一切知ろうとしないので、想像の世界を「傴僂で鳩胸」といった非実在の悪魔が埋め尽くし始める(妄想暴走次元)。③最後には視界の全てが非実在の悪魔によって埋め尽くされる。カール・シュミットの敵友理論の最大の弱点がこれで「敵」がどんどん悪魔合体して「非実在の悪魔」化していく事により現実への対応能力はかえって奪われていくのです。

「悪魔合体プロセス」図式化。位相幾何学的には「19世紀欧州の急進共和派の破滅」「カール・シュミットの敵友理論」と数理構造が相似。


一方、アメリカに亡命したピーター・ドラッカーはそこまでかかる「ナチズムの本質としての詐術」が波及するのを恐れ、それをひっくり返した「正しく反省し正しく進歩する」「恐れず対立を超えた問題解決を遂行する」マネージメント理論の研究に着手。これを習得した経営者がナチズム的詐術上陸に対する防波堤となる事を期待したのです。この意味合いにおいてマネージメント理論は単なる経営技法でなくある種の「反ナチス」的イデオロギーといえそうです。

この考え方をこれまでこの投稿で利用してきた「初期状態からただひたすら要素数を減らし続ける」グラフ構造に射影するには「進化は多様化を伴い、その多様化への対応が新たな進化を生み出す」としたハーバード・スペンサーの社会進化論を導入するのが良さそうです。そうベクトル方向の逆転。

ハーバード・スペンサー(Herbert Spencer,1820~1903年)の段階的発展説の特徴は、全てが「単純(画一的で貧相)から複雑(多様で豊か)」に進むと考えた点にある。19世紀英国における(砂糖や木綿への関税が撤廃され、奴隷制が禁じられていった)自由主義的政策の成功を下敷きにしたホイッグ史観とも取れる世界主義イデオロギー。何の前提もなく「英国の展開=世界の展開」と敷衍してしまう無邪気さは同時代のカール・マルクスに通じる。

上掲「段階的発展説の進化史」

これまで考えた事がなかった「ピーター・ドラッカー自身はハーバート・スペンサーの社会進化論についてどう考えていたか」。以下によれば①まず企業人の「経済的な成功に無縁の人たち」を軽視する傾向について「カルヴァン主義的選民意識」と見咎め、②今はそれをハーバード・スペンサーの用語を引用して「適者生存」と言い繕ってるのみと指摘。やっぱりピーター・ドラッカーにとってマネージメント理論は単なる経営技法でなくイデオロギーなのですね。

より具体的には①まず0次元から無限次元(次元数=要素数)にかけて滑らかに連続する垂直軸と、これに傾き1で連動する円錐座標系を想定する。②目盛の刻み方を等比数列$${α^n}$$と設定する事で現在位置$${α^0}$$が特定する(以降は比率で増減)。③次元数(要素数)がどれだけ増えても同時に扱えるのは概ねプライオリティ上位の3個までだが、残りの要素の多彩さが生存戦略上有利に働いてくると想定する(あるいは分布意味論における「$${10^{30}}$$の壁」問題がここで効いてくる?)。おや、もしかしてこの図って(資本回転によって全体の半径が増減していく)期間会計概念の発展形でもある?

「スペンサーの社会進化論」要素を加味したピーター・ドラッカーのマネージメント論

最後に登場したグラフ構造はまだまだ吟味が必要そうです。カール・シュミットにしてみれば「当時のワイマール政権は次元数(要素数)が多過ぎて決められない状態だったのだから、私の考え方も間違ってない」という話でしょうし。そんな感じで以下続報…

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