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『現代思想の冒険』は何を伝えているのか。


竹田青嗣さんの『現代思想の冒険』を読み終えました。
この本は、竹田さんが竹田さんなりに掴んだ近現代ヨーロッパ哲学の「根っこ」とそれらの哲学がぶち当たった「壁」とを竹田さんの言葉で表現し直した上で、しからばその壁を打ち破るにはどう考えたらよいか(哲学をどう使えばよいか)を突き詰めて表現したものだと私は理解しました。その理解に基づいて、この本の内容を私なりに章立てし、まとめてみたいと思います。

1 近現代ヨーロッパ哲学の「根っこ」


竹田さんは、近現代のヨーロッパ哲学が理想の社会を「彼岸」的に描いてその実現を目指し、しかし人はみなそれぞればらばらなことを考えているようだとわかるにつれ挫折してしまった流れを丁寧に書いています。以下にそれが伺える部分をいくつか引用して記載します。

近代以前の世界では、およそ<世界>の秩序がどうなっており、それをどのようにおし進めていくべきかは、すべてほぼ宗教や神学の手にゆだねられていた。(略)デカルトやカントの思想が、一方では宗教的権威から人間の合理的で理性的な精神のありようを解き放つとともに、もう一方で富の力がもたらす“物質主義“への警鐘を打ち鳴らすような意味を持っていたことは明らかであろう。ところが現在の時点から振り返ってみると、富(<資本=貨幣>)の運動を原理とする近代社会のすすみゆきは、彼らの予測をはるかにこえて思いもよらなかった諸矛盾を生み落とすことになった。<以上、第3章より>

そもそも現にある社会体制を全く異なったものに変えるということが成立するためには、多くの人間の一定の合意がなくてはならない。社会変革から革命に至ろうとするマルクス主義の展望は、多くのひとびとが同じひとつの大きな原因によって苦しい状態に投げ入れられているという現実感によってはじめて支えられていた。(略)階級(階層)関係が固定的な社会では、人間の豊かに生きたいという欲望は、現にある社会を超えたところにもうひとつあるべき社会の像を思い描く。(略)マルクス主義はこの現にある社会を超えた彼岸のユートピア社会を、人間の理性の力によって現実化しようとする未曾有の実験だったと言える。<以上、第1章より>

どんな言葉(思想)も確定的(同一性)な社会の構造を見出せないとすれば、そもそも<世界像>はいろんな人間がてんでんばらばらに思い描いている孤独な夢にすぎず、しかもそれを繋いでゆくようなどんな手だて(普遍性への手だて)も存在しない、このことがポストモダン思想が導くことになるもうひとつの大きな難問なのである。(略)人間が社会の総体的な構造に手を触れ、それを改変し得るという展望の、いわば最後の砦であったマルクス主義の世界観を否認する(略)そのことによって<世界>(=社会構造)は、人間にとって全く手に負えないものとなった。<以上、第2章より>

2 近現代ヨーロッパ哲学の「壁」


近現代ヨーロッパ哲学は、なぜ「彼岸」を描き、なぜそれに挫折したのか。竹田さんは、近代ヨーロッパ哲学が「一方に<主観>があり、もう一方に<客観>がある」とする誤った前提を持ってしまったため、そして現代ヨーロッパ哲学もまた「(客観としての)彼岸」を掴み得ないと絶望してしまったために、これら哲学が「認識にはどんな根拠(客観という)もないにもかかわらず、なぜ人間は相互理解の可能性をもち、あるレベルでは極めて広い共通認識が成立するのかを、全く説明でき」なくなったのだと指摘しています。竹田さんは例えば次のようなことを書かれています。

人間は自分の存在の意味をつねに確認しようとする本性をもっているが、誰でも必ずどこかで、自分の存在の意味は自分自身だけではどうしても確証し得ないということに気づくのである。人間は大なり小なり、他人を必要とし、他人の視線によってのみはじめて自分の意味を確認することができるような存在だからである。(略)この見方は知らず知らずのうちに社会的な役割関係が人間存在の意味であるという見方にズレてゆき、さらには、人間の価値は彼が社会的になにものであるかによって決まる、という転倒した考え方に陥ってゆくのである。<以上、第3章より>

<社会>という観念(あるいはそれへの信)はほんとうはそれ自体が、人間の日常的な生き難さにとってその乗り越えの可能性として現れたようなエロス性だったのにほかならない。したがって、わたしたちが見てきたような近代思想ー現代思想の背理は、人間がこの日常生活を脱して、理想的な生活世界へ到達しなければ、およそ生にどんな可能性もないという観点が生じたことに根をもっていたと言える。しかしこの観点はわたしたちが人間の欲望の意味をつきつめてみるとき、一種の倒錯であることがわかる。(略)彼らの思想の彼岸的性格は、それがつねに日常性を超え出ようとする欲望の不可避性を見ていたことから現れていたのにほかならないのである。<以上、第6章より>

自分がここにいていいのだと確信し続けるためには多かれ少なかれ他人の承認を必要とするといった感覚は誰もが持っていて、そのためにうっかりすると「他人の承認」を得るべく相手に「自分の考えが客観的にすばらしいものである」と認めさせようとしてしまうわけですが、実のところその「すばらしさ」を測る全人類統一のものさしは存在せず、何らかのものさしが存在するとしてもそれは自分が向き合いうる相手との相互了解によって作られるものに過ぎないわけです。つまり、これさえできれば何が起きても誰が来ても100%大丈夫といった唯一絶対の技は存在しないので、100人100通りの相互了解をしていくしかない。加えて言えば、自分の中にいるいろんな自分との相互了解もまた難しい。その都度表に現れようとする自分との間で、その都度相互了解をしていかなければならず、実に生きづらく面倒くさい。

この生きづらさ、面倒くささをどうにか乗り越えうるのが、竹田さんのおっしゃる「エロス性」を語りきるという行為。私としては「エロス性」を「魅惑するもの」と表現した方が理解しやすいのでそう言おうと思いますが、人は自分を「魅惑するもの」について頑張って語ろうとすることを通じ、どうにかこうにか自分自身や他人と「相互了解」していく道を見いだしているのだと思います。

3 「哲学」をどう使うべきか


この本が書かれたのは1980年代で、それから40年ほどが経った今、一人ひとりが違う考えを持っていて、誰であれ相手の合意なく自分の考えを無条件に押しつけてはならないという考え方は、少なくとも当時よりは普及しているのではないかと感じています。しかしそれにも関わらず、自分と違う考えを持つ多様な人たちとどうしたらうまくやっていけるのかということについては、迷っている人が多いように思っています(少なくとも私はそうです)。

竹田さんはこの本の中で、人が相手と相互了解をしていくツールとしての「言葉」に関し、次のようなことを書かれています。

人間がものごとの本質について相互に了解(納得)しあうことが起るということの基礎になっているのは、「本質」なるものが、つねに言葉によってしか表現され得ないという事情それ自体にある。(略)言葉は人それぞれによってさまざまなエロス価値の多様性を持っているが、しかし同時にある共通の<意味>(指示性)という側面を必ず持っている。なぜならわたしたちはいろんな言葉というものをはじめから持っていたのではなく、必ず先にのべたような間主観的な了解の構造を通してそれをならい覚えたからだ。<以上、第5章より>

言葉の本質は「世界を映しとる」という機能にあるのではなく、むしろ、“言葉の世界“を編むことによってそこにエロス性を創り上げることにある<以上、第2章より>

自分と相手を魅惑するであろう言葉を、試行的に編み上げ、実際に表に出してみる。そして納得し合い続ける。私のそういう言葉は、毎回チャレンジです。なぜなら、この本にも書かれているように、「わたしたちにとって世界は、どれほどそれを言葉で限定しようと、決して捉え尽くせず、常に予断を許さない新しい相を持って現れてくるもの、という性質を失うことなく持っている。そしてわたしたちは、まさしくそういった世界の性格を<現実>と呼んでいる」からです。

このチャレンジを厳しい現実の中でどうにかしてうまくやっていくには、うっかり自分なりの彼岸を他者に押しつけるような事態にならないよう、竹田さんが次のようにおっしゃっているような「これまでの哲学からの学び」を、ものごとを捉える道具のひとつとしていいあんばいに使っていけばいいのだろうと思っています。

<真理>とは、<われわれ>の彼方に存在するのではなく、ただ、<われわれ>の相互的な納得を見出すことにだけある。この可能性がある限り、あるいはこの可能性によってだけ、わたしたちは世界を把握し、自分を了解していくという行為に意味を見出し得るのである。(略)「真の世界はどうしても実現されるべきだ」という「公理」をもはや棄てなければならない。(略)ある究極の世界像を想定するのではなく、そのときそのときの時代の条件の中で、つねにひとびとの生の意識が、相互的な納得に向かって開かれてゆくような考え方の通路をつけてゆくこと、そういうかたちがひとびとの世界像を編み変えてゆく<以上、第5章より>

物をとらえるときは必ず一定の観点(利用可能性という)を必要とする。だが、心とはむしろつねに観点を立てるものである。「体験」とはつまり、人間が<世界>に対してつねに必ずさまざまな観点を立てることによって<世界>を受けとるその仕方のことなのだ。(略)<世界>とははじめにあらかじめ存在する客観ではなくて、人間の「体験」において「開示性」として現れてくる存在者(=事物)の環境性である。(略)現れた可能性をつかもうとしたり失敗したりすることの繰り返しが生活の節目を作りあげている。(略)人間はつねにさまざまな可能性が現れてくるのでなければ、自由に生きているという生の感覚を得られない存在<以上、第6章より>

人間はただ、それについて考えることが他人たちと関係を結び自分の生の具体的な環境と理由を作り出し得るという可能性においてだけ、いつも<社会>について考えるのである。<以上、第4章より>

<社会>という観念が人間の実存にとって持っている意味合いは、おそらく、「絶望」と「孤独」によって非連続性のうちに閉じこめられた人間にとっていちばん土台となっているような、あるいはそのためいちばん最後の可能性として現れてくるような<他者>との相互了解への信ということなのである。<以上、終章より>

つまり、人はみな「絶望」と「孤独」を抱えていて、そこから脱するために<社会>という場を活用し、<他者>との相互了解をうまいこととりつけることによって、自分の新たな「可能性」をその時々で開こうとしているのだということがここに書かれているのだと私は理解しているのですが、こうしたことがわかっていれば、「自分と相手を魅惑するであろう言葉を、試行的に編み上げ、実際に表に出して、納得し合い続ける」チャレンジを何のためにするのかがわかり、ラクになるのではないかなということを思っているのです。

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