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「決める」ということにまつわる仕組みについて。(2021年3月30日(火))


昨晩は『現代思想の冒険』の内容を自分なりにまとめ上げ、今朝は数日前からいただいているお題「決められないのはなぜか」ということについて考え始めているのですが、この「決められないのはなぜか」の今の私の仮説をかいつまんで言うと、その人にとってはそのものごとを自力で決めようとしなくてもそれなりにやっていけるということなのだろうと考えています。あえて責任を伴う決断をする必然性がその人にはないというだけのことなのだなと。

『現代思想の冒険』には「人間はただ、それについて考えることが他人たちと関係を結び自分の生の具体的な環境と理由を作り出し得るという可能性においてだけ、いつも<社会>について考える」といった表現があって、つまり、特に困りごとがなければ誰も社会のことなんて考えないよということなのですが、これを「決める/決めない」問題に置き直すと、それを決めようが決めまいが、自分の孤独や絶望の解消には影響しないよと思っているということなのだと思います。その人が責任を負ってまでやりたい「よろこびや充実感に溢れた魅惑的なこと」ではないのです。

あと、自分の周りの「なぜか即決しない人」を観察していると、自分が様々なものごとを即決できるとは思っていないような印象を受けるとともに、それをする筋肉のようなものも退化している感じがあります。昔どなたかのエッセイで「レストランなどでメニューを即決するトレーニングを積むといい」といった言葉を目にしたことがあるのですが、「即決している人」のプロセスをなぞって筋トレすることができる仕組みをつくるのもいいかもしれません。

#エッセイ #日記 #memento