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決められない苦しさの超え方。(2021年4月3日(土))


以前、「決めるとはどういうことか」について考察して立てた仮説は、『いい塩梅に生きていくべく、予測可能性を高めることを目的とした、現象からの理論の見いだし(言語化)』のことというものだったのですが、

その仮説を立てた時に同時に考えたのは、常に周囲に仕事を隠して抱え持ち、その上で必要な意思決定(段取り)や実行をどこまでも先延ばそう(あわよくばやらないで済ませよう)とがんばるような、やるべきとされていることをやっていない現実を直視できない(そして誰にも知られたくなく指摘もされたくない)タイプの人のことでした。

そのようなタイプにとって、自分の現実をつまびらかにする「現象からの理論の見いだし」というのはひどく乱暴で苦しいものです。自分が若かった頃を振り返っても、「できない自分」という現実を突きつけてくる(ように私に感じさせる)人に対しては、やはり恨めしい気持ちを持っていたなと。

「決めるとは『いい塩梅に生きていくべく、予測可能性を高めることを目的とした、現象からの理論の見いだし(言語化)』のこととする仮説が正しかったとして、そうすると「やるべきとされていることをやっていない現実を直視できない(そして誰にも知られたくなく指摘もされたくない)タイプの人」は、まず「現象からの理論の見いだし(言語化)」ができないわけです。

しかも最終的(大変な事態になっていることが明らかになったあと)には周囲が仕事をなんとかしてくれるから、「現象からの理論の見いだし」なんかしなくても本人的には「いい塩梅(?)」で切り抜けられてしまう。

こうしたケースに対しては、「容易に決められるパターン」を辛抱強く示していくのがいいのだろうと考えています。このケースでは「現象からの理論の見いだし」をスタートにすることはできないので、(1)「いい塩梅」に向けた変化をごくごく小さいものに設定することによって、(2)予測可能性を考える上で必要になる状況の見極め(情報収集と分析)の量を減らすやり方がベストなのだろうと気づいたのでした。

#エッセイ #日記 #memento