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「決める」ために必要なこと。(2021年3月27日(土))


「決める」ということについて、それがうまくできる時とできない時それぞれの状況や理由についてどのように考えますかといったお題をいただいたので、今朝温泉に入る前にこれに回答をし、温泉から上がって喫茶店にきた今、改めてこのテーマについて整理し直しています。

【”決める”といったときに、どのようなことを思い浮かべましたか 】
ものごとや段取りを決められず仕事に支障を来たしたり、再考を求めた時にそれを面倒くさがって「これでも間違いではない」と押し通そうとする人に対し、「嫌だなぁ」と思う自分のことを思い浮かべました。

【”決める”のが簡単なことはどのようなことですか】
自分が自分の責任で「これをやる」と腹をくくっていることについて、体力的・精神的余裕とリソースのあてがひとまずあったなら、さっと決めてすぐに着手できます。

【”決める”のが難しいことはどのようなことですか?】
自分で責任を負いたくなかったり、自分がそれをうまくできないことがつまびらかになってしまうことを恐れるものごとについては、「これを決めたのは自分じゃなくて他人なんで〜」と言いたくてしかたないから、なかなか「決められない」のでしょうね。

【”決める”のが難しいと感じる理由はなんだと思いますか?】
自分が決めなくても、誰かが責任を持って決めればいい(自分はそんな面倒くさいことはせず、おいしいところだけいただければいい)という考えがベースあり、さらに自分の能動的な決断や行動を楽にしうるリソースがどこにどのようにあるのかを探す余裕もないということが、そうした考えを加速しているのではないでしょうか。

私の回答はこのようなものだったのですが、人(自分を含む)が気持ちよく何かを決め、たのしくそれを実行に移す環境を整えるには、まず「養生(睡眠、食事、運動)」を最優先にして体力的・精神的余裕を作り続けることが大前提で、各人のこの大前提をできるだけ妨げない(できるだけ煽り立てない)場を作るということが第一だと思うとともに、

うまくできるかどうかわからないことに不安と面倒くささを覚えることは人間として当たり前かもしれないと思うので、どうしたらいいかわからなかったり面倒くささを覚えたり頭が真っ白になりそうになったりしがちな「意思決定」のプロセスについて、ある程度フォーマット化して標準装備し(ただしそれをルール化させるのではなく、柔軟性も担保する)、「道具」として使えるようにしておく(それをそのまま使うことは強制しない)のがいいのだろうなと考えたのでした。

#エッセイ #日記 #memento