見出し画像

階(きざはし)

 そうやって何度目かの休憩を終えたあと、彼は再び階段を昇り始めた。
 見上げると、どこまでも無限に続いているかのような長い長い階段がある。
 ここまで、彼は下を見下ろしたことがなかった。階段の途中で足を休めるときも、意識して下を見ようとしなかった。狭い段に両膝を付き、ぼんやりと上を眺めながら休んだ。立ち上がるときには、転げ落ちないように両手を段に付き、片足ずつ慎重に立った。


 もう何時間くらいこの階段を昇っているのだろう。辺りからは何の音もしない。自分の息遣いと、衣擦れと、靴音だけが響く。他には何の音も無い。こういう空間にいると、時間の流れは遅く感じる。もう何時間も経っているのではないかと思っても、実際にはほんの数十分しか経っていないなどということもざらにある。
 彼は時計を持っていなかった。だから、この階段を昇り始めてからどのくらいの時間が経ったのか、正確に知ることはできなかった。ただ、彼の主観では、少なくとも二時間は階段を昇り続けているように感じていた。
 ゆっくりと、一段ずつ、階段を昇っていく。ふと、彼はこの階段を昇る目的を考えた。自分は何故この階段を昇っているのだろう。誰かに昇るように指示されたのだろうか。それとも、この先に自分が目指すものがあったのだろうか。
 この無限に思われる階段の先に、素晴らしい宝物があるとしたら。それを自分が知っていたとしたら、必死に昇ろうとするかもしれない。だが、彼は、自分にこの階段を昇る目的が無いことに、唐突に気付いてしまった。そうしたら、今までの行為が無意味なものに思えて仕方がなくなった。何のためにこの階段を昇っていたのか。もし目的があったのだとしたら、何故それを忘れてしまったのか。夢から目が覚めたとき、そこが悪夢のような現実であったかのように、彼は青ざめた。この階段を昇り続けることに意味はあるのか。それを考え始めたら、恐ろしくてたまらなくなった。きっと意味なんかないのだと、彼は心の底で悟っていた。
 そうして、彼は初めて下を見た。ずっと上ばかり見て昇り続けていた階段の途中で足を止め、今まで自分が背を向けていた方を、階段の下の方を見た。
 その先には、上を見たときと同じように、長い長い階段があった。じっと目を凝らしても、床らしきものは見えない。ここが途方もなく高い場所のように感じた瞬間、彼の体はぐらりと揺らいだ。彼は慌てて階段に手を付き、なんとか倒れずに済んだ。そこで、この階段に手すりがないことに気がついた。
 彼は恐る恐る上を見た。それからもう一度下を見た。どちらを見ても同じような風景だ。ほとんど変わらない。下に向かって階段を「昇る」ことすら可能に思えるほどだ。
 どうしてこんなおかしな場所に迷い込んでしまったんだろう……。彼は心の中でそう自問した。声を出すのは躊躇われた。ここがあまりに静かな空間のために、自分の声で驚いて足を踏み外すようなことがあったら困ると思った。
 ゆっくりと左右を見渡す。どちらにも何もない。ただ、真っ白な空間が広がっているだけだ。
 この光はどこからやってくるのだろう、と彼は不思議に思った。この空間は明るい。辺りは真っ白で、階段にも影がない。自分の影も非常に薄い。光が四方八方から当たっているのではないかと彼は思った。そして辺りを注意深く見回したが、それらしき光源は見当たらなかった。強いて言えば、すべてが光源に見えた。この白い壁に包まれた空間。いや、周りにあるのが壁なのかどうかも定かではない。
 しばらくぼんやりとしていたあと、結局、彼はまた階段を昇り始めた。降りるのは得策でないように思った。今まで何時間もかけて階段を昇ってきたのだから、戻るのには同じだけの時間がかかる。逆を言うと、同じだけの時間をかければ戻ることはできるだろう。だが、自分にはこの階段を昇る目的があったはずだった。何の意味もなくこんな階段を昇ろうとはしないだろう。少なくとも、人間というのはそういう生き物だ。無意味なことはできない。だから、この階段を昇ることは、自分の目的であったはずなのだ。たとえ、今はそれを思い出せないとしても。


 そうして、彼は休み休み階段を昇った。段々と疲労が溜まってきた。そのうちに、休んでいる間に一瞬だけ眠りに落ちてしまうようになった。
 眠ってもいいのだろうか……と、彼は不安を覚えた。ここで眠ることに危険があるとすれば、寝ている間に階段から転がり落ちてしまうことだ。そう考えたとき、彼は無意識に下を見た。床がどれだけ遠くにあるのか分からないほど、高いところまで昇ってきてしまった。こんなところから落ちたら、間違いなく死んでしまうだろう。だから眠るのは少し怖かった。
 だけれども、気がついたときには、その直前まで眠りに就いていた。はっと目を覚ましたときと同じ感覚で意識を取り戻したら、寝起きのときのように意識がぼんやりとしていた。彼は階段にしがみつくようにして眠っていた。幸い、転げ落ちはしていなかった。寝ぼけて落っこちることがないように、彼は慎重に立ち上がった。
 そうして、再び階段を昇り始めた。どこまで続くのか分からないほど長い長い階段を。だんだんに足が痛み始めた。そのことに気がついたら、足の痛みが急激に耐えがたいものに変化していった。
 ……もう痛くて歩けない。
 そう思って、ふと上を見上げた。そこには、視界の限りに続く、無限とも思えるような階段があった。どこまでもどこまでも続いているように見える階段。実際に終わりは無いのかもしれない。……永遠に終わらないのかもしれない。生命の続く限り、自分は階段を昇り続ける……それが自分に課せられた罰なのではないか。そう思えるほどに、階段を昇ることが苦痛になり始めていた。
 この階段を昇ることに、きっと意味は無いのだ。自分は何かの罪を犯して、その罰のためにこの階段を昇らされているのだ。この階段は無限に続いていて、自分は生命が尽きるまで階段を昇り続けなければならないのだ……。
 彼がその考えに至った途端、体が宙に放り出された。
 階段があると思い込んでいた場所には、ぽっかりと穴があいていた。
 いや、穴ではなかった。階段と見えたものは幻だった。彼は何の疑いも持たずに階段に足をかけようとして、そのまま足を踏み外してしまったのだ。
 そして、それとほぼ同時に頭上で唐突に輝かしい光が瞬き始め、彼は驚いて上を見上げた。視線の先には巨大な光と、そこへ続く長い階段があった。
 ああ、あそこがゴールだったんだと、彼は思った。あそこにたどり着くことが自分の目的だったのだと。そのために長い長い階段を昇ってきていたのだと。それなのに……何を間違えてしまったのか、自分は放り出されてしまった。「失格」したのだと、彼は思った。
 頭上には大きな光。それはいつまで経っても小さくなることが無い。視界にあるのは光と階段だけ。彼には、自分が落ちているのか、それとも宙に浮かんでいるのか、それが全く分からなかった。
 空中に放り出され、体が浮かんでいるような感覚を味わいながら、彼はずっと考えていた。階段を昇り切れず、ゴールできなかったことを。何かを間違えてしまったけれど、それが何だったのかが分からないことを。
 そうしてどのくらいの時間が経ったのか。彼の視界は唐突にすっぽりと霧に覆われた。今まで目が痛くなるほどの白い光に包まれていた視界が、急に灰色になった。そしてみるみるうちに辺りは暗くなっていく。すぐ側に見えていたはずの階段すら見えない。今までずっと変化がなかった視界に変化が訪れたことで、ああ、自分はやはり落ちていたんだと、彼はそう実感した。
 そうして暗い翳りの中をずっと落ちていったあと、急に視界が開けた。そこは少し前まで彼がいた場所とは全く正反対の場所だった。暗く、寒く、辺りは真っ黒だった。頭を動かすと、少し前までは白い階段が見えていた場所に、今は真っ黒な階段が見えていた。上を見上げると、暗くぼんやりとした雲のようなものが見えた。さっきまで通っていたのはあそこだったのだろう。だが、その雲はどんどん遠ざかって、次第に見えなくなっていった。
 彼は階段のほうを見た。階段はやはり無限と思えるほどに長く続いている。そのまま、ゆっくりと、泳ぐようにして下を向いた。視線の先には、目に見える限り続く黒い階段がある。どこまでもどこまでも、途絶えることなく、世界の果てにまで続くような長い階段が。この階段を昇っていったら、いつかはまたあの白い世界にたどり着けるのだろうか……そんなことを考えながら、彼はどこまでも落ちていった。

* * *

解説

15年ぐらい前、大学生のころの作品です。「読み終わって徒労感に襲われるような、何の意味もないものを書きたい」と思って書いたものでした。その後、この作品を読んだ人から「意味がわからない。全く面白くない」と言われ、意図通りのものに仕上がったことが嬉しくなってしまいました。

今になって思うと、人生への絶望を感じる作品です。「何を目指しているかわからないまま道なりに進み、ゴール間近で何かを失敗したが、何を失敗したかわからないまま暗闇に落ちていく」というのは、当時の自分の人生を象徴的に描いているかのようだと今は感じます。

この作品は当時は単に「意味のないもの」だったのですが、「意味のないもの」として
・無限の階段を昇る
・意義が見出せない行動を惰性でし続ける
という行動をとりあげた自分の心理から、当時の人生観を感じます。いつまで続くのかわからない、意義もわからない人生を、どこまで行けばいいのかもわからないまま惰性で進む……当時の自分の価値観ではまさしくそうでした。

この後、私はうつ病になり、大学院を休学を経て退学という道を辿ります。その頃の人生への絶望感はとても強いものでした。それでもなんだか生きてきましたし、今となってはうつ病も治って人生にも意義を感じているのですから、本当に人生には何が起こるかわからないですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?