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個人と共同体

「しょうがない」「そういうもんだから」が口癖の人によく出会う。かれらは自分の意志に基づかず、環境に従って生きていくというのが基本の考え方なのだと思う。奴隷みたいだなと私はおもうが、かれらは私のことを「自分だけで生きているわけでもないのに偉そうに」と感じるようだ。(というか言われた。)

ようやくわかりあうのをやめて共存している現状をただ受け入れようと思えた。かれらを感情的に否定するのでなく、かれらと私のようなひとをそれぞれ分析できるようにもなってきた。

かれらは奴隷なのではなく戸谷成雄のいうところのレリーフ的(詳しくはこちら)な生き方をしているのかもしれない。
そしてその生き方のほうが日本ではずっと主流だったのかもしれない。あるいはいまも主流なのかもしれない。
それを奴隷的と感じる私のほうが現実離れした「西洋かぶれ」なのかも。
そもそも西洋によって生まれた奴隷という言葉を使っているし。

もちろん現代では西洋と日本で情報や教育や環境の格差が過去ほどは大きくないし、制度的にみても民主主義・資本主義という西洋と同じ制度をとっている。だから私が西洋かぶれになるのはあたりまえでもある。
しかし保守的な伝統(地域の習慣や家族の結束や家父長制やイエ制度など)を重んじる集団でずっとち、いまもそこで生きている人もいる。かれらは現在の制度や現代の教育よりも、地域や家族の伝統的考え方から色濃く影響を受けるのだから、私から見たらまるで戦前のような家族や社会の在り方も彼らにとっては普通だし、それを「仕方ない」と受け入れるのも当然のことなのだ。

多分彼らからみたら、私は「日本人てへんだよね」という外国人みたいなものなのだろう。そして私からみても彼らはやっぱり「へんな人」「非常識な人」なのだ。

このように、「実態や伝統」と「現在の制度や建前的な道徳」が二重レイヤーのように存在するというのは、日本のこの時代の特殊な現象なのだろうか?それともどんな国でも価値観や制度が変わっていくときに起こることなのだろうか。

この二つの価値観はずっと離れたままなのか?統合したり第三の在り方はつくれないのか?本来戸谷が言っている共同体感覚もそれをイメージしているのではないか。(戸谷はもしかしたらこれからのというよりは、遠い過去に人間が本来持っていた本質的な共同体感覚をとりもどそうとしているのかもしれないが。)

※ここまで私が考えていることは、ざっくりくくるとコンテクスチュアリズムと個人主義の間の力学の話になると思う。
(哲学界ではこの話を乗り越えようといろいろな考えがでてきているけれど、乗り越え切れていないというような印象がある。実際のところどうなのだろう。また哲学界でも議論されているということは日本固有ではなくもっと人間社会にとって根源的な話題なのだろうか?)


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