見出し画像

デザイナーベビー、完璧、完全、不完全

  デザイナーベビーについて議論していた。教室内で起こった笑いに、涙が止まらなかった


 重い映画やドラマを観てから、お笑い芸人の動画を見て、楽しくなろうと、重荷を下ろそうとする。それなのに、お笑い芸人の動画でさえも、コメントやら何やらで世知辛さを感じてしまう。お笑いだけでなく、芸術関係のものやあらゆるものが、その表舞台やパフォーマンスではなくて、裏の姿や演者たちの辛い現実まで知ることができる世の中で、しかもその演者の人間性自体を公の場で貶す、評価するような人がいる、そしてその悪口が沢山出回っている。アンチという激しい言葉に影響されない方がおかしい。「繊細すぎる」とか「SNSのコメント真に受けんな」とか、スルースキルなんて、持っている方が真っ当な人なんだろうか?その悪口に傷つくのは、悪口の対象者だけではなくて、比較対象として名前が挙がった人、その双方のことを応援している人、好きな人、周りの人、そして悪口を言った人自身を信じていた人、全ての人が不快になる。


 技術の核心で人間が犠牲にしたものが、あまりにも多すぎるように感じる。もちろん、科学がなければ、産業革命がなければ、こんなに便利で楽な暮らしはしていない。でも、それなら昔の人々は、不便で不幸だったのだろうか、そうではないだろう。世の中がどんなに便利になったって、どんなに不可能が可能になり完璧というものが実現可能になったって、幸せな人と不幸な人の割合は、いつの時代も常に、変わらないんじゃないだろうか。または、もし、今、何でも叶う今の方が、不便なかつてよりも不幸な人の割合が多かったら?現代社会は、平等でも何でもない。だれかがだれかに一生残るような深い傷を負わせても、被害者の方が落ち度や隙を探られ、被害者の方が必死になって訴えなければならない。肌の色や見た目や属する国や性別によって人を判定することがごく自然に行われていて、その状況に甘んじる人、苦しむ人、訴え続ける人、それでも問題視しない人が、同時に存在している。完璧であることが幸せだと信じて、生まれてくる子供までも、科学で操作しようとする人がいる。人間の優劣をはっきりと口に出して、何も悪びれることなく、巨大な影響力を持ちながら金儲けをする人がいる。遺伝子レベルで「劣っている」という人々を迫害しながら、素敵な歌をお届けしているミュージシャンが堂々と活動している。
 人間が皆、容姿端麗で、運動もできて、頭も良い、どんな世界で生きる楽しさなんてあるものか。そんな世界で、笑いが、音楽が、美術が、映画が、ドラマが、スポーツが、喜びや悲しみやその全てが、存在するわけないじゃないか。

デザイナーベビーが怖い。

 遺伝子組み換えが、生物に適用されることが怖い。生まれること事態にまで介入してくる科学が怖い。怖くてたまらない。無責任だが、せめて私の生きるうちは、そんなことやめてほしい。完璧であることが、こわい。優しくて勉強もできて運動神経抜群で容姿端麗な人に、上手く話しかけられないし話せない。もちろん、クラスに一人くらいはそういう人がいるし、そんな人が存在するのも世の中だ。でも、そんな完全な人だけの世の中になったら?そこでは何が喜びなのか?何が望まれ、何が創造されるのか?完璧な人ばかりな世界で、価値を持つものは不完全か?本当に、能力の高い人ばかりが世の中に存在すべきなのか?その時、私たちの欲は何に向けられるのか?世の中はこんなに発展してどうするのか?何へと向かっている?利便性や効率を追求したその先には、地球には何が残るんだ?そこにはまだ感情があるか?私たちがいま感じているような苦しみや喜びや笑いや感動など、存在しているだろうか?それが、わからない。全てが、全ての望みが簡単に叶えられるような世界になって、そこで幸福とは、どう定義されるのだろうか。


 デザイナーベビーについて議論していた時、教室内で起こった笑いに、涙が止まらなかった。マスクをしていて良かった。本当に止まらない涙だった。全員が完璧な人間に生まれるようデザインされた未来で、くだらない笑いは存在しているだろうか。私たちの子供や孫の世代は、この教室で起こったような笑いを、その一体感を、味わうことができないのだろうか。そう思うと怖くて、涙が溢れてきた。不完全で、嫌な奴でうるさくてダメダメで、頭が悪くて運動ができなくて、うざくて嘘つきで、背が低くて鼻がでかくてニキビだらけで、そんな欠点を持ったクラスの人たちが、泣けるほど愛おしく感じた。みんなひっくるめて抱きしめたくなった。人間であることを、抱き合いながら確かめたかった。

 考えや意見は変わっていくかもしれないが、教室の、この瞬間に感じたことと思ったことは忘れないでいたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?