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生きなやむ人 第5回 実在・実写主義で生きる

4月9日から12日にかけてがバタバタとしていたので、今日朝起きて絵を描いて、それから図書館で色々本を読んできました。
家の中だと読み進まなかった本を集中的に読んで、借りるには大きすぎる大判の本をいくつか読みました。
朝色鉛筆で絵を描いていて、日本画は平面的で光の要素がどこか少なくて薄いけれど、西洋画だとパキッとした光を誇張したような派手な絵が多いのはなんでだろう、と思いました。他にも自分の絵の課題と、他にも疑問が出たので、日本画の本と西洋画の本を読んできました。知らないカタカナがいくつかあったのでメモしてきました。
絵具の成分で見え方に差があることはなんとなく知っていましたが、色々と勉強していきたいです。

4月11日に2つの机の位置、パソコンの位置調整を行い、作業がしやすくなりました。
今の所5時には一度起きてみるということを4日続けられています。今日は布団の中でゆっくりしたので6時から活動し始めましたが、動けていて調子が戻ってきたかな、と感じていました。

悩んでいない時の特徴として
・参加する行事がある(行きたくないものでないこと)
・キャンセルしたくない、ポジティブな予定がある
・自分ではなくって、ポジティブなテンションでの興味が他の人に向けられている
・1日でやるべきことが具体的に流れとしてもわかっている
ということが分かってきました。

悩む時は
・悩む時間的配分が1日の中で多く割ける状態にある(何をしたら良いのか分からない)
・自分の内側に原因を探そうとしている
・抽象的な無知
・素直に納得できない、腑に落ちないような葛藤がある
・認知的不協和と呼ばれる状態にあり今の状態に満足できていない
・他者とのネガティブな関わりがある時
・体調不良
ということが分かりました。

恥ずかしい話なのですが、高校生の頃は「分からないところが分からない」という時がありました。この時、膨大にある課題・試験勉強・塾での取り組み・進研ゼミ、短期間でつけてもらった家庭教師などやることが飽和状態でした。不安から何をどのくらいやっていったら良いのか分からない。先生に相談してみても「それは自分で考えないと」と言われ、飽和状態のまま足掻き続ける、ということがありました。
この時、できたら一旦立ち止まってみて、基本の教科書か参考書かひとつに集中してみて、どこまで理解できているのか、どこからあやふやな部分が出てくるのか、というところを掘り下げてみることができたら良かったです。
このときの自分を振り返ってみると、不安から準備した膨大な量の教材で、実際に使いこなせていない状態の現実と、分からないところを明らかにすると自分が馬鹿だと明らかになるのではないか、それがこわいという変なプライドがあったのです。

今日は認知的不協和に関する本を読み終えました。
そもそも認知的不協和が何か、というとキツネの酸っぱいブドウの童話の話が例えとして出ていました。
キツネが食べたいブドウは、木の高いところに実っていて、自分ではどうやっても取れない、獲物(ブドウ)を得られない時に「あのブドウは酸っぱいに違いない。だから諦めよう」と自分に言い聞かせて納得する話です。
このときキツネは
「ブドウを食べたい。だから視界に入って気になっているブドウを取りたい」という欲望と
「自分で取るのはできないほど高いところにブドウが実っている」
という現実があります。

この時に、キツネはブドウの価値を「美味しいもの」としてではなく、「酸っぱくてとても食べるに向かないもの」と自分に言い聞かせて、自分を納得させる話です。
認知行動療法的な思考ですよね。
キツネはブドウを実際には食べていないので、美味しいものだったのか、本当に酸っぱいものだったのかは分かりません。
でも、分からなくても、手に入らないのであればブドウを「酸っぱいもの」として思い込み、それで自分が素直に気がすむのであればそのほうが健全な感じがします。
この葛藤になるような場面に認知的不協和があります。

私も、社会人としてのキャリアを捨てる選択をして通信制の大学に入ったので、入学式まで選択したことがそれでよかったのかどうか悩む時がありました。
たられば、ではないですが、選択肢が2つあったときにどちらにも価値が大きいと感じているほど認知的不協和は大きくなるそうです。

生活の中で、意識していることも、ほとんど瞬間的に無意識下で気づいていないことも、選択する場面は多いです。
自分で選択する、ということは納得する上で大切なことでもありますが、そのさき上手くいくまで考えて行動を続けていく、試行錯誤して自分に合ったペースややり方を学んでいく、という過程が必要ですので脳の体力も、精神面も体力も使います。
ストレスがかかりますし、楽ではないです。ただ、それが自分の生き方に責任を持つ、ということなのかもしれません。

また、身体におけるダメージが大きくて精神的に大きな不協和を及ぼすこともあるそうです。
自分の中の粗探しをしても、原因が自分だけではなく、環境だったり、本当にたまたまそこにいたから、であったり純粋な遺伝的素因からなるものだったり、運が悪かっただけかもしれません。
そういうことに巻き込まれてしまった時、どうしようもなかったことを受け入れるのには時間がかかります。一生受け入れられないこともあります。

簡単な言葉で納得できるほど現実が簡単ではないこと、また、受け入れなきゃいけないのかどうかもよく考えてみないといけません。
戦う方がいいのか、静かに逃げた方がいいのか、です。

私の苦手なことわざに「やらない後悔よりやった後悔」というものがあります。
これもひとつ自分を納得させる時に背中を推してくれることわざのように思います。
このとこわざのあまり好きではないところは、実際には、やったことで起こる後悔もあるわけで、やらない、という選択肢を選んだことを否定的にみている感じが苦手なのです。どちらであっても、それを選ぶまでにどのくらい具体的に考えてみて、情報を集めたり、調べたり、人から聞いてみるなどの行動をとった上で選択したか、という方が大事なことなように思います。

現実には必ず本当の答えが存在するわけではないこと、将来のことは計画立てても誰も先のことで確実なことはわからないという前提があります。

最近私なりの考えとしては実在・実写主義でいこう、ということです。
普通に生活していて、当たり前ですが、自分は一般人なので、今実在するもの・実写的に行動選択をしよう、ということです。
アニメや漫画のように現実が進むことはそうありません。
明日は名探偵コナンの映画があって楽しみにしています。アニメや漫画も好きです。けれど、生活にはファンタジーの世界のような現実はほとんどありません。ほうきで空を飛んだりも、簡単に魔法を使えるようになることや、未来を見通すことはできません。もしあったとしても、それは天才や有名人や達人や著名人が一見派手でも謙虚に積み重ねてきた実績で、自分には関係ありません。
なので、ひたすら地味にやっていくことを一生懸命やるのです。
なんだか、夢も希望もないなと思われそうです。けれど、自分を実写として、人はなまものですから、寿命がいつかそのタイミングが来たら亡くなります。
目標がある場合には期間が決められる場合には一度決めてみて、それに必要な過程をなるべく細かく、具体的に明らかにします。
信用できる実績を積み重ねていくイメージです。仕事では自分のことをまず信用してもらえるようにコミュニケーションを取ったり、仕事の向き合い方を日々積み重ねてやっていく中でだんだん周りとも共通認識で相手を知ること、自分を知ってもらうことができます。
自分を客観的にみて行動するのが上手にできたらいいのですが、客観的にみるのは訓練が必要だと感じています。
私は苦手です。練習中です。なので、この信用できるような働き方を1人でやっていくのです。勇気を出して立ち止まってみる。聞いてみる、それで行動として日々を送ってみる。上手くいかないなと途中で感じることがあれば、また工程を見つめ直して修正していけばいいのです。そうやって距離感を知っていくことも、経験を得るということの一つなのかなと考えています。
焦る必要、肩の力を入れすぎる必要はないです。

ぼやぼやと何も考えずに過ごすと1日中寝たり、お酒を早い時間から飲んでみたり、だらだらとYoutubeや他者が作ったエンタメを受け取っておしまい、になってしまいます。あっという間に年が過ぎて、何も残らなかったとなるのは悲しいです。
エンタメに触れる機会があったら、掘り下げてそのどこが良かったのか、何に感動したのか、何がイマイチだったのか、自分だったらどうしていくかを明らかにして記録してみる、またそう考えた理由など、共通の趣味のある人と話をしてみるのでは、得られるものが違ってくると思います。

時々は思いっきり開放してリフレッシュのためにとことん寝る、今日はお酒を飲むぞ!という場合もありますし、それも良いことです。

実際に自分が行動してみるのと、せずにただ口だけ動かす理想を語る場合は、そういう自分をどう納得させるんだろう、と思います。本の中で誰か・何かを下げることで相対的に自分の価値を高いと考えることで認知的不協和を解消させようとする場合もあるそうです。

人間は完璧じゃないから、それも前提として、分からないことを素直に「分からないのでもう一度教えてください」「わかりません」と言えるように訓練中です。
社会人になったら「一旦は自分で調べてみて、探してみて、それでも分からなかったら先輩に聞きなさい」と言われます。ただ、調べること、探すことに比重を置きすぎるのも良くないです。私は容量が悪いので、時間をかけて調べること、人にあまり頼らないことが、迷惑をかけないことで良いことだと思っていました。
けれど、時間的な「ここまで」という線引きをして、ずっと調べて聞くことを躊躇するのも果たして良いのか?ということです。分からないようであれば素直に人に頼ることに慣れていった方が得られるものが大きいことに身をもって知りました。
そのバランスが難しいと感じています。なので練習中です。

まずは悩んだら認知的不協和が自分の中で起きているぞ、ということを認識することがひとつ大切なことだな、と思いました。
それから、事実、実在する現実と向き合ってみて、紐解いてみたり、過程を具体的な方法まで明らかにして取り組んでいくこと、分からないところはメモして、調べられる範囲で調べて、素直に知識のある人に「教えてください」と聞いてみることをやっていきたいです。


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