空気の缶詰
「ねえねえ、今日は珍しいものを買ってきたんだ」
と、僕は彼女と同棲するワンルームに入るなり、袋を掲げた。
「なに?」キッチンの彼女が振り向く。
「こっち、こっち来て」
とリビングに案内し、やっと手に入れた二つのブツを袋から出す。
それらはカン、コン、と音を立てて机に置かれた。
「ほらほら、『ハワイの空気』『モルディブの空気』の缶詰!」
僕は波打ち際が描かれた鮮やかなラベルを指しながら、どう? と彼女の顔を見た。
だが、僕の期待とは裏腹に、彼女は能面のような表情になっていた。
「……あれ?」
「ねえ、これ、イクラシタノ?」
いつもは鈴の音のような声が、いまや地獄から響くような低音になっていた。僕は震え上がった。
「…………」
「……空気が貴重品なの、知ってるよね」
「……ごめん」
何か言える雰囲気ではない。僕は素直に謝った。彼女がはっと気づいたように聞いてくる。
「空気、ってことは、これ、お金で買ったんじゃないのね。どれだけの空気と交換になるの」
「一缶で……一日分」
「一日分ん!?」
彼女の大声に僕は首をすくめた。
「そのちっちゃな空気で一日分!?」
小さくなりながら、待って、興奮するとますます空気を消耗するから、と言いそうになって、言葉を飲み込む。絶対神経を逆なでする。
ここは地球ではない。
宇宙に浮かぶステーションなのだ。ラグランジュ4に鎮座する植民ステーション。
そして宇宙で人類が生きていくのに一番大切なものが空気。何はなくとも空気がなければ生きられないのだ。
無駄遣いは許されない。
『空気の缶詰』は完全な娯楽品だ。それでも空気は空気、入手するにはお金ではなく代わりの空気が必要だ。つまり僕は丸二日分、30,000リットルの空気をわずか二缶200ccの空気と交換してきたということになる。
「どこにそんな余計な空気があるのよっ!」
「あの、毎日少しづつ余剰量を測って……環境管理局に申請して……」
僕はもごもごと説明する。あまり知られていないが、余剰分をきちんと計測し、返納することで貯金ならぬ貯空気が可能だ。それをちまちまと半年間繰り返し、今回、それを放出したというわけなのだ。
「……無駄遣いをしたわけじゃないのね?」
少し落ち着いた彼女の声に、僕はこくこくとうなずく。
「でも、なんでこんな缶詰なんか」
「以前……君が昔の地球の映像を見て『奇麗だなあ』って言っているのを見て」
僕はその時のことを思い出す。
壁の大きな液晶窓。そこに映されていたのは地球のビーチだった。ステーション生まれの彼女は本物の海を見たことがない。だが、液晶の海を見るその眼には、確かに憧憬の念があった。海は人類共通のふるさとなのかも知れない。
その横顔を見た僕は、彼女に海を見せたいと思ったのだ。しかしステーションから地球へ行くのは困難だ。……単に金銭の問題ではあるが。
「だからその……少しでも……雰囲気だけでも味わえたらなあ……と思って」
僕はもう一度頭を下げる。「でもホントごめん! 勝手なことして」
しばらくそのままの姿勢で固まる。やがて彼女の大きなため息が聞こえた。
「もういいわ」
僕は顔を上げる。彼女の顔は戸惑ったような、苦笑いのような表情になっていた。
「私のこと考えてくれてたのね、文句も言えないわ」
「ありがとう。じゃあ……開ける?」
「イヤ」
彼女は腕を組んでふくれっ面になる。しまった、また何か怒らせたか――と思ったが、彼女は相好を崩した。
「プロジェクションマッピングの準備をしなきゃ。この部屋にハワイを――モルディブでもいいけど――映すの。それから缶を開けるのよ」
青い空、真白い砂のビーチ。寄せては返す波。それらを強く照らし出す太陽。
その中で缶を開けるなら、それはもう、それ以上の使い方はないだろう。
「分かった、手伝うよ」
そして僕はいつか本物の海を見せたい、と強く思うのだった。
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