奇説無惨絵条々書影

毎日小説を読んだら〇〇になる件④

 WEB連載の「桔梗の人」よろしくお願いいたします! と共に、2019年2月新刊の「奇説無惨絵条々」(文藝春秋)と文庫化「曽呂利」(実業之日本社)もよろしくお願いいたします。

 前回の続きです。
 自分の小説に気持ち悪さを覚え始め、書いている小説ジャンルのルーツを辿る読書といった戦略的な読書スタイルも確立し始めたのが2017年でした。今回はそれを経た、2018年のお話です。

「新古典」の発見

 発見、というよりは、腑に落ちた、というほうが正確なのですが、あえて「発見」と書きます。
 小説は時間経過による三分類ができるのではないかと薄々感づいてはいたのです。
 もはや注釈なしに作品の仕掛けを復元しにくい「古典」。
 現在最前線で刊行されており、わたしも末席を汚している「新典」。
 そして、「古典」と「新典」の間にある「新古典」。
(なお、これらの言葉はわたしが勝手に命名したものなので、もしそれに相当する言葉があったらご教示いただけると嬉しいです)
 「新古典」はここ十~三十年くらいの小説界隈の動向を決めている本のことだと思ってください。これまで、「古典」と「新典」ばかり読んでいたけれども、この「新古典」こそ掘り返して読まねばならないのではないかと気づかされたのです。
 というわけで、現在は

 古典:新古典:新典=1:1:2

 くらいの塩梅で読むようにしています。
 それに伴い、学生時代に読んだ本を再読し始めているのが2018年です。学生時代に読んだ最新作の内いくつかは「新古典」となっているのです。ともかく、2018年は「新古典」というわたしの脳内分類を腑に落とすことができたという意味で、意義深い一年でした。

自分の文章に感じた「気持ち悪さ」の正体

 そして2018年は、自分の文章に感じていた気持ち悪さの正体に気づいた年でもありました。
 結局のところ、「自分の文章があまりに理想に達していない」から起こる酔いであり、わたしの筆先が先鋭化していないゆえの文章の引っ掛かりが気持ち悪さに繋がっているのでした。
 端的に言えば、
「わたしってこんなに下手だったっけ?」
 という絶望が「気持ち悪さ」に繋がったのです。
 ところで、2019年刊行の「曽呂利」(実業之日本社)の作業のほとんどは2018年なのですが、己の文章への気持ち悪さにえずきながら、その要素をできるだけ減らそうと努力した結果、40%の差し替え、全文リファインとなった次第です。
 裏を返せば、2017年から2018年にかけて、目が肥えたということになるのだと思います。
 思えば2017年から2018年頃、専業になってから小説を千冊読破しています。促成栽培気味に本を読みまくった結果起こった成長痛が「気持ち悪さ」につながったのではないかというのがわたしの想像です。

広く読むことによってわかってきたこと

 様々なジャンルの小説を読むようにしたという話をしたと思いますが、これにより、むしろわたしは作家としては(いい意味で)幅が狭まったと思っています。
 俺は何でもできるオールマイティ作家だ、と言いたくなるのが人情ですし、実際わたしもそうして作家活動をやってきましたが、天下の遼遠ぶりを知ってからは心境に変化が出てきました。
「どエンタメな作品はめちゃくちゃ巧者の作家さんが多いから、あえてわたしが書く必要はないかな」
「〇〇小説、わたしが提案できる新機軸がなさそうだからあえて手を挙げる必要も薄いかな」
 そうした判断ができるようになってきたといいますか。
 特にわたしが何でも欲しがり屋さんなので、新機軸ばかり求めてしまうのですが、「わたしだからできること」「わたしにしかできないこと」を深く考えるようになりました。裏を返せば、様々な作家の本に触れることにより「自分だからできること」「自分にしかできないこと」を模索し先鋭化させてきた先人の営みを知ることができた、とも言えましょう。
 とはいえ、これからも欲しがり屋作家たるわたしは新機軸を追い続けるのでしょうけれども。ここに関しては2018年に端緒をつかみ始めたところなので、明確な結論は避けておきます。

 というのが、2018年のわたしの本を巡る動きです。
 次回が最終回。更新は3/28予定です。
 三年余りの実験を経て、谷津矢車はどうなってしまったのか。ご期待ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?