奇説無惨絵条々書影

『奇説無惨絵条々』の世界第2回、「演劇改良運動」

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 水曜日と日曜日に更新予定の「奇説無惨絵条々の世界」ですが、今回は第二回です。というわけで、第二回は幕間で重要な背景となります、『演劇改良運動』についてお話しようと思います。

 『演劇改良運動』というのは読んで字のごとく、演劇(歌舞伎)を改良しようという運動のことです。具体的には、歌舞伎における前時代的な世界観や荒唐無稽な筋を廃し、品行方正で歴史考証的な意味で正しい劇にまで昇華していこうとする文化運動だったとされているのですが、調べていくうちに色々複雑な経緯を辿ったものだったようです。今日はこの話です。


 一般に演劇改良運動は、西欧化が進む日本において、歌舞伎を世界に誇る演劇とすべく、学者や政府、一部の歌舞伎関係者が一丸となって行なったものとされています。が、どうも実情は違ったようで、幕末の劇界では既に時代考証を重視しようという動きが起こり始めており、明治の初年頃には既に歴史的事実を重視しているという意味での「活歴」という用例があるそうです。

 明治五年、劇界に新政府から布達がやってきます。荒唐無稽な筋とか江戸時代的な価値観をした歌舞伎は控えるように、との布達です。どうもこれは歌舞伎のみを対象にしたものであったようですが、業界側が拡大解釈をし、戯作者や絵師なども影響を受けたようです。
 新政府からすれば、日本が近代化へと向かう中、江戸を描き続けた庶民のための芸能である歌舞伎は「旧弊」に写ったのでしょう。
 また、どうも当時の有識者たちは歌舞伎を西洋のオペラのように格式高いものにしたかったようです。かくして学者や有識者、ジャーナリストたちによって『演劇改良会』が結成されるに至ります。

 けれど、この布達をはじめとする新政府の姿勢は、歌舞伎を改革したいと考えていた劇界内部の人々からすればチャンスでもありました。そうした時代の空気を読み、動いたのが九世市川團十郎でした。
 もともと九世團十郎は歌舞伎の改革を模索していた人で、厳密な時代考証を取り入れた高尚な劇を志向していた節があります。そんな彼は、明治十年代後半に官民乗り合いの形で結成された演劇改良会に接近し、歌舞伎の改革に取り組むのです。
 さて、その結果、どうなったかといいますれば……。
 あまり、演劇改良運動は成功しませんでした。
 元の客層である庶民を無視した高尚な芝居が受け入れられることはなく、「活歴もの」という言葉が嘲り語になってしまうほど人気がありませんでした。
 とはいえ、後世に全く影響がないかと言えば、そんなことはありません。現代でも歌舞伎がある種のステータスシンボルとしてあり続けているのは、明治期、日本を代表する演劇として歌舞伎が称揚されたからでもあります。演劇改良運動によって明治二十年に天覧歌舞伎が開かれたこともそうです。天皇が観覧したことで、歌舞伎のステータスは確かに上がったのです。また、九世團十郎の模索した「リアルな」歌舞伎の形は、今の歌舞伎にも影響を与えていると言われています。
 良くも悪くも、演劇改良運動は近代から現代にかけての歌舞伎の位置を決めてしまったともいえましょう。
  そして、「近代のための演劇」という問題意識が、劇界に広く共有されることにもなったのです。
 これが良かったことか悪かったことか、わたしには判断はつきません。ただ、この変化によって失われたものがあったのであろうというのが作家であるわたしの一私見であります。

 実は、この演劇改良運動の終焉を見届けるかのように、大阪からオッペケペー節を引っ提げて東京にやって来たある芸人さんが、やがて日本演劇史に大きな足跡を刻むことになるのですが、それはまた別のお話です。

 というわけで今日はこれにて。どっとはらい。

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