信長様はもういない書影

小さな言葉と大きな言葉

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 言葉には大きく分けて、

 「大きな言葉」と「小さな言葉

 があると思っています。
 正確には、「大きな場を居場所とする言葉」と、「小さな場を居場所とする言葉」ですが、まあそれはさておいて。
 「大きな言葉」というのは、社会通念や常識、一般論などを語った言葉のこと、それに対して、「小さな言葉」は個人の実感やつぶやきといったもののことです。
 実は、小説もこの二つの言葉から成っています。
 「大きな言葉」を用いて物語の枠組みを構築し、ここぞという場面で「小さな言葉」を使う。あるいは「小さな言葉」で小世界を構築しながら、「大きな言葉」と対比してみせたり。恐らく、小説というのは「大きな言葉」と「小さな言葉」の葛藤の末に生まれるものなんじゃないかという気がしている今日この頃です。

 ただ、ここのところ「小さな言葉」の加害性について考える機会が増えています。
 「小さな言葉」は「大きな言葉」のように一般化されていませんし、より生々しい精神がむき出しになってしまうものなので、誰かの心にダメージを与えかねない言葉ですし、本来届くべきでない相手に届いた時、嫌悪感を与えてしまいかねない言葉なのですね(もちろん、「大きな言葉」に全く加害性がないかといえばそういうものではありませんし、むしろ、「大きな言葉」の加害性のほうが厄介なこともあるのですがそれはさておき)。実はTwitterなどで話題を呼ぶ言葉の多くが、「小さな言葉」なのです。というより、Twitterはそもそも「小さな言葉」を集めておく場所みたいなものなので、そりゃ物議を醸すこともたくさんあるわいなーという話です。

 しかしながら、「小さな言葉」はとてつもない突破力があります。
 「大きな言葉」は譬えるなら吊り天井のように機能します。上から頭上まで降りてきて、少しずつわたしたちを苛み、規定するものです。それがため、わたしたちの心には強く作用しません。
 それに対し、「小さな言葉」は槍のようなものです。突き通す力は随一、場合によれば人の心に侵入し、場合によれば「大きな言葉」すら破壊する力を持っています。ただ、穂先の形が突いてみるまで分からない、あるいは、かつての経験則によってある程度形を把握できるにすぎません。または、似たような機能をする他の言葉からの類推で、だいたいの形を想像するほかありません。

 小説という言葉の構造物でもって読者の心を貫くには、そんなあやふやな槍をもってするほかないのだろうなあ、今のわたしはそんな考えでいます。きっと、小説がフィクションであると明言しているのは、「小さな言葉」の棘を丸めるための、最初のお約束なのかもしれません。

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