信長様はもういない書影

言葉の魔

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 職業柄、「言葉」に思いを致す時間が長いのですが、それにつけても、ここのところ、とみに言葉という道具の難しさに直面している気がします。

 思うに、言葉は「だいたいこの辺り」というところを打ち抜くには便利な武器ですが、「0.1mmのピンポイント」をぶち抜くためにはとんでもない習練が問われる、そんな武器であるように思っています。
 そして、そのことを理解しないと、どうやらとんでもないことになってしまいそうだぞ、という気もし始めています。
 「だいたいこの辺り」を積み上げていくことによりテキストは出来上がっていくわけですが、そうすると、己の表現したいものとテキストの上で立ち現れる像との間に差異が生まれるのですね。いや、正確には、「だいたいこの辺り」で打ち出された像には解釈の余地が生まれてしまう、ということなのかもしれません。もちろん、その余地(文字通りこれは「遊び」と呼ばれるものでしょうが)を使うことである種の効果を生み出すことも出来るでしょうが……。

 文字書きの遣っている道具である「言葉」は、そもそもファジィなものであり、これをどう制御・展開してゆくのか。
 今、わたしが考えていることはざっとそうしたことです。

(もっとも、ファジィなものである言葉を制御・展開するためにこそ技法や技術があるわけで、勉強しなさいという話ですね、わかります)

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