「BAB 特定存在管理局」 第三話
風の強い夜……学生服を着た黒髪の少女が、高層ビルの屋上の縁に立っている。
フェンスの向こう側で落下を妨げるものは無く、強い風がスカートや髪の毛を揺らしている。
「いい天気だね。元気? 気分はどう?」
「誰⁉」
少女の後ろ……屋上から、突然男の声がする。少女が振り向くと、瞬がにこにことしながら近づいてくる。
「ち、近づかないで!」
少女は焦り、そう叫ぶ。今にも足を踏み外しそうなところに、少女は立っている。しかし、瞬は躊躇うことなく、ゆっくり歩いて少女に近づいていく。
「それ以上来ないで! 飛び降りますよ! 本気です!」
少女はフェンスを掴み、瞬の方を見てそう叫ぶ。
「飛び降りる……ねぇ」
パチン、と瞬は指を鳴らす。
すると少女の真横、フェンスの外側に突然現れる。
「でも、死ねないでしょ?」
「きゃあっ⁉」
少女は突然現れた瞬に驚き、足を踏み外す。ぐらり、と身体が傾くが、瞬はそれを支えようともせずに、黙って見ている。
当然、落下していくと思われた少女は、屋上の少し下の壁面で、身体を横にしたままピタリと止まった。
足は壁にしっかりとくっついており、壁に対して垂直に、真っすぐ立っている。
「ほら、戻ってきなよ。落ち着いて話そう!」
瞬は片方の手でフェンスを掴み、手を差し伸べる。しかし少女は、涙を浮かべた顔で瞬を睨むと、そのまま壁を走って下へと下がっていく。そしてジャンプして、他の建物の壁へと飛び移った。
「参ったな……管理局の自殺志望特定存在対応マニュアルに則ったはずなのに……」
そう言って、瞬はパチンと指を鳴らした。
高層ビルの下で、冴姫は車の後部座席の扉を開けて降りた。すると目の前の広場に、瞬がちょうど現れた。
「遅いぞ、後輩」
「うっさいわね。女の子は寝て起きてすぐになんて、出てこれないの!」
「君の見てくれなんて誰も気にしてないっての」
瞬は少女が走り去っていった方を気にしながらそう言った。
「あっちに逃げたぞ。ついて来い!」
瞬は走り始めて、冴姫もその後に続く。
「移(うつり)葎(りつ)、高校生、特定存在と認定。能力は重力を無視して壁や天井に立つことができるというシンプルなもの……らしい。自殺未遂を繰り返しては、死ねずに壁に立つ姿が目撃されて、管理局にマークされた、と」
瞬は走りながら、百合から聞いた情報を喋る。
「自殺なんて……どうして死にたいなんて思うんだろう?」
「確かに! 能天気バカの俺たちには無縁の話だな?」
「一緒にしないでよね!」
二人は言い合いながら走る。葎は器用に建物の壁から建物の壁へと飛び移り、障害物を避けながら進む二人はなかなか追いつけない。
葎は、人気のない細い路地に入ると、その壁面の十階以上の高い位置で、しゃがみ込んだ。足元は壁であり、重力に反した格好だ。
「うぅっ……ごめんなさい……ごめんなさい。また死ねなかった……」
葎はそう言って涙を流す。葎の頭には、ある光景がフラッシュバックする。葎と二人で、屋上の縁に並ぶ、同じ制服を着た女の子。二人は目に涙を浮かべながら、風に吹かれて、笑っている。
パチン、という音が響く。
指を鳴らすその音に、葎は顔を上げる。すると、すぐそばの非常階段に、瞬と冴姫が立っている。葎は驚いて目を見開く。
「な、何なの? あなたたち……」
「私達は管理局。あなたを保護しに来たんだよ!」
「管理局……?」
「葎さん。私達はあなたと同じなの。一緒に安全なところへ行きましょう!」
冴姫はそう言って、葎の方へ手を伸ばす。
しかし、葎は立ち上がって、壁の上を後ずさった。
「私と同じ……? 確かに、あの人、変な能力を使っていた」
「そうそう。俺も君と同じ、変な奴ってわけ」
「アンタは黙ってなさい!」
余計なことばかり言う瞬を、冴姫は一喝する。予断が許される状況ではなかった。
冴姫は上司の百合が言っていたことを思い出す。
「特定存在の移(うつり)自身は、自分が死ねないと思っているようだが……能力は無制限に発揮できるものばかりではない。使いすぎてある時突然、解除される可能性だってあるのだ」
(この子は自分が突然落ちて死んじゃうかもしれないとは、気づいていない。でもこの子は死にたがっているのだから、それを伝えたら、落ちるまで逃げ続けちゃうかもしれない……)
冴姫はそう考えて、葎が壁に立っていられる間に、慎重かつ速やかに、説得を終えようとしていた。
「私達が力になる。だから、一緒にゆっくり話せるところへ行こう……?」
「助けなんていらない! 私は死にたいの……放っておいて!」
葎はそう言って、冴姫を拒絶した。
「でも実際、死にたきゃ、他にも方法はあるだろ。どうして落下死にこだわる?」
「アンタねぇ……!」
まるで他の方法で死ねと推奨するような瞬の言葉に、冴姫は怒り、振り向いた。
「事実だろ? 興味本位さ。他の方法で死にたいんなら、手伝ってやらんこともないぞ?」
「ふざけたこと言わないで! 自殺なんて絶対だめよ!」
激昂する冴姫を、見下すような目で瞬は見ながら、内心思っていた。
(実際自殺ほう助なんかする気なくても、信じてついて来たところを確保、収容すりゃそれでいいだろうが。扱い辛い後輩だ、全く)
「飛び降りじゃないと駄目なのよ……」
葎がそう言ったのを聞いて、冴姫はぎょっとして耳を疑った。
「な、なんでよ……どうしてそんなに飛び降り自殺にこだわるわけ?」
どんな自殺でも駄目だと言っていた割に、冴姫は理解できない事を聞いたせいで、すぐにそう問い返していた。
「あなた達には……関係ないですから」
「ある! あるよ……」
「どうして?」
「変な能力のせいで苦しんでる。普通の人には起きないことで、苦しんだ。それだけじゃダメ? あなただって、そうなんでしょう⁉」
冴姫はそう叫ぶ。葎は真剣な冴姫の表情に、少し心を揺さぶられる。
「もし、私がこの能力を持ってなければ……菜々(なな)と一緒に死ねてた……」
「菜々って?」
「私の、たった一人の……友達。私が殺したの」
「殺したってそんな……葎さんはそんなことする人に見えないよ。何があったの?」
葎は少し迷ったが、じっと次の言葉を待つ冴姫の方を見て、遠い地面を見てから、ゆっくりと口を開いた。
「私達は理解し合ってた。二人とも生きるのが苦しかったの。この世界に救いなんてないって……そう思ってた。救いなんてないってことに同意しているってことだけが、私達の絆だった」
「そんな……」
「だから、菜々が一緒に死んで欲しいって言った時、私は断らなかった。死ぬんだったら菜々とがいいとさえ思った。それで……屋上に二人で立って……一緒に泣いて、笑って、それから……」
「嘘……」
話を聞いているだけなのに、冴姫は泣きそうな顔をする。
「一緒に飛び降りたの。それなのに……私だけがこうして、壁に立っていた。落ちていく菜々の顔は、絶望に歪んでた。騙されたって、どうして一緒に来てくれないのって……私を恨みながら落ちて。私はそこから動けなくて、落ちていく菜々の顔をずっと見て……だから私が殺したの! 裏切ったの! あの子を……」
葎はそれを鮮明に思い出し、パニックに陥る。
「私も飛び降りじゃないといけないの……後を追わないと……同じ痛みを味わうべきなのよ!」
葎はそう叫ぶ。そして、呼吸を整えて、恐る恐る冴姫たちの方を見る。
すると……
冴姫は泣いていた。ぽろぽろと涙を流して、それを拭こうともせずに手すりにつかまったまま、葎の方を見ていた。
「な、何であなたが泣いて……」
「わかんない……わかんないけど……死ななきゃいけないなんて、考えないでよ……」
「今の話を聞いても、まだそう思うの?」
「私も、同じだから」
「え?」
「私も……この能力のせいで、そうしたくなかったのに、人を殺してしまった」
「嘘……」
「本当だよ……だからあなたの気持ちがすごくわかる。だから……だからこそ、死ななきゃいけないなんて言わないでよ。私は生きて償いたい。あなたがあなた自身を許さなかったら、私も許されないってことに……死ぬしかないってことになるじゃない!」
瞬はいままで顔色一つ変えずに話を聞いていたが、冴姫の言葉を聞いて初めて、顔を背けた。
「私死にたくないよ。生きて償いたい。もっと知らないこといっぱいしたいし、学校にも通いたい、恋だってしたい! だから……一緒に生きようよ。生きてていいって、私にも、自分自身にもそう言ってよ!」
冴姫は叫ぶ。葎は、思いもよらぬ言葉をかけられて、戸惑っている。
「お願いだから……」
冴姫は柵にもたれかかったまま、うなだれた。
「私に……償う方法なんてあるんでしょうか?」
葎は少し揺らいでいた。遠い地面を見ながら、小さな声でそう呟く。冴姫はそれを感じ取り、少し顔を明るくして、手を差し出す。
「きっとあるよ! だから、一緒に行こう!」
葎は、ためらいがちに、足を一歩だけ、冴姫の方へ踏み出す。
それを見て、冴姫は笑顔でうなずく。もうそれ以上伸ばせない手を、精一杯葎の方へ伸ばそうとする。
葎は一歩一歩、冴姫に近づいていく。
しかしその時、突然足を踏み外した。
「えっ?」
バランスを崩し、身体が斜めに倒れていく。正常に、落下していく。
「どうして……!」
「そんな!」
冴姫が叫び、身を乗り出す。しかし、手は届かない。葎は落下する。
高い建物なので、すぐには落ち切らないが、死ぬのは時間の問題だ。
その一瞬のうちに、できることは限られている。
「出たとこ勝負だ! わかってるな⁉」
瞬は叫ぶ。冴姫は何故か、ナイフを取り出して構える。
「何でもいいから早く!」
冴姫は叫んだ。瞬は両手を構え、指を鳴らした。
二人の姿が、非常階段から消えた。
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