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一瞬の思いが、いつまでも ^ 響いている *

 大切な作品に再会する旅。ついに!完結編。
 1976年に雑誌プリンセスに発表された萩尾望都の『アメリカン・パイ』。断捨離しちゃった作品をさがして、前編では、アメリカン・パイの原曲に込められた「古き良きアメリカへの追悼」を、中編では、萩尾望都のマンガ家としての「新しいチャレンジへの分岐点」を発見し、後編のはずだった中継ぎ編では、半世紀近く経たあの頃の雑誌に掲載された「物語が結晶化させた時間」に出会い、この完結編では、宝塚歌劇で舞台化された「いつまでもリフレインするリューの歌声」を手に入れました。そしてグラン・パの思い。あぁ、これは「残された者の物語」だったんですね。

 マンガの登場人物が歌う時、読者は、頭の中に仮想の歌声を響かせ耳を傾けます。原曲のある『アメリカン・パイ』は、リューが「とても優しい」と言うドン・マクリーンの声を思い浮かべながら、全編を通してラジオから流れるBGMのように。そして、グラン・パに背中を押されて、初めてリューがステージで歌うシーン。それまでほとんどしゃべらなかったリューの想いが歌声となって、宝塚の舞台で、読者の頭の中の幻想から解き放たれます。

 わたしいつも 夢みていた ぶどう畑のうえをゆく 空と風になること

 その声と共に、故郷ボルドーへの思いを表現する「影役」によるダンス。マンガ表現のメソッドで、登場人物の背景にその想い(イメージ)をシーンとして描き込むように、舞台表現のメソッドでは、登場人物とそっくりの背丈の役者を登場させ、ふりを重ねてそれが「影役」であることを観客に悟らせた後、リューがリュシェンヌとしてボルドーで暮らしていた頃の情景をダンスで見せる。すごいです。「いつまでも 長い髪白いドレス フランスのぶどう畑を 春の花 冬の雪 両親の愛をうけ いつまでも笑っていられた女の子だった」過去のリュシェンヌと「つるつるの壁にツメをたて 死の底に落ちる前に なにかにすがろうとしている」現在のリューがオーバーラップされていきます。

 それはむしろ育っていない子供の声で 磨かれた音質でも豊かな声量でもなかったが 裸にしたような純粋の音で いつまでもいつまでも聞いていたい気になった

 リューを演じた山科愛の声は、ちょっと磨かれてしまっていた感もあるけど、リューの絶望に囚われながらもグラン・パに見つけた一縷の望みにすがり、そのごまかし笑いと孤独に怯える視線が秀逸でした。

 『ベルサイユのばら』や『銀河英雄伝説』、『ポーの一族』と、圧倒的なビジュアルでマンガを舞台化する宝塚歌劇ですが、この『アメリカン・パイ』では、トップスターに”もてない役”をさせて、人としての思いの存在感で魅せてくれます。グラン・パ役の貴城けいの熱演と熱唱に、そのカッコ良すぎるビジュアルも、リューへの思いがつのるとともに気にならなくなります。観客が2500人入る大劇場と違って500人規模のバウホールでの公演なのでフィナーレもシンプルなのですが、物語のメインシーンを歌で振り返る構成は、まさしくグラン・パの「残された者の思い」そのもので、いつまでもいつまでもリューの想いがリフレインされて響きます。

 演出の小柳菜穂子さんは、公演カタログに次のように書いています。

 主人公はハンサムではなく、ヒロインとの間に恋愛関係はなく、そのヒロインからして、一見少年のような出立というこの作品を宝塚で舞台化したいと思ったのは、作品の根底にある”人間がただ存在すること”の美しさを表現したいと思ったからに他なりません。
<中略>
 勝手な解釈かもしれませんが、正しくあれと言われ続け、息苦しかった十代の頃から今まで、私はこの作品の持つ、全ての人は存在するだけで意味がある、誰もが死ぬ前に何かを残す、というメッセージを拠り所にして生きてきました。

 小柳菜穂子さんにとっても大切な作品だった萩尾望都の『アメリカン・パイ』。私がヒトの平等を学校でどう教わったか覚えていませんが、「全ての人は存在するだけで意味がある」というメッセージが深く浸透しているのは、この作品のおかげな気がします。「誰もが死ぬ前に何かを残す」ことができるのか、残せないこと、残してしまうことをリューのように、もがき、あがくのか、我々はすべからく「残された者」であり、いずれは残す者であり、忘れられるものでもあるのでしょう。

 いつまでもいつまでも響いている一瞬の思いを巡る旅。
 この作品との出会いに、再会の試みに感謝します。

 だから これには あの子の死んだあとの話は ないんだ

前編はこちら:あの日の『思い』をお蔵出し*
中編はこちら:原点にして分岐点な作品*なんじゃね
中継ぎ編はこちら:半世紀を経て、物語は時間を結晶化する*

2021年3月5日

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