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#小説
【連載小説】4つの頂点と辺 #1
第1頂点森下家が燃えている。火事だ。十月も終わりに近づいたある日の夜、私は犬の散歩をしている最中、偶然にそれに遭遇した。
しかし、私が第一発見者というわけではなかった。消防車はすでに何台も到着して、周囲は人だかりで埋め尽くされていた。むしろ、なぜ私はそれまでのんきに犬の散歩などしていたのだろう?と思うほどの大騒動であった。やはり耳が遠くなっているのだろう。
私の家と森下家は同じ町内ながら、特に
【連載小説】4つの頂点と辺 #2
第1辺:森下つぐみ(長女)の章(1)お昼を告げるチャイムが鳴った。
どうして会社なのに、学校みたいに間抜けな音を鳴らすのだろう、と祖父江は思う。
チャイムが鳴ると、部屋にいた人たちは席を立って、昼食に出かけていく。祖父江と、隣に座っているアラガキが席に残る形になる。アラガキのところには、もうすぐ午前中に注文していた弁当が届くはずだ。アラガキは筋肉質で、年齢は二十八歳だが、頭にどういうわけだか白
【連載小説】4つの頂点と辺 #3
第1辺:森下つぐみ(長女)の章(2)病院に行ってからも、状況は変わらなかった。
特に体に異常はないようだった。頭もくらくらしないし、めまいもない。排泄の回数は減っているようだ。体重も減っていない。体調も悪くはない。午前六時に目覚めて、八時半に出社。だいたい夜は八時ごろまで残業をし、帰って眠る。いつもの生活パターンから、食事だけがなくなった。
週があけて、月曜日になり、火曜日になり、水曜日になっ
【連載小説】4つの頂点と辺 #4
第1辺:森下つぐみ(長女)の章(3)「祖父江さん、まだいたんですか?」
声がした。森下つぐみだった。
「ちょっと忘れ物をしたのです」
彼女が言った。そう、とか何とか、祖父江は返事をした。気をつけてね。
祖父江さんしばらくお休みもらうんですって。彼女が言う。そうなんだ。貯めこんだ有給を使ってしまおうかと思っているんだ。
いいですね、私も引越しの準備でバタバタしているから、休みたいなあ。笑い
【連載小説】4つの頂点と辺 #5
第2頂点(1)森下家の長男・薫氏が行方不明だと聞いたのは、森下家の火事を目撃したちょうど一週間後だった。
私は商社で数十年働いていたのだが、認知症を患った妻の介護のために会社を辞めた。
辞めたとたん、事故で妻は死んだ。餅を喉につまらせてしまったのだ。私の留守中の出来事であり、私が発見した時には、かわいそうにもがき苦しんで喉をひっかいたようで、喉は血まみれになり、苦しさのために目玉が少し飛び出た状
【連載小説】4つの頂点と辺 #6
第2頂点(2)森下家の長男・薫氏の謎の失踪事件。誘拐か?はたまた自主的な失踪か?外務省が動いて現地の日本大使館でも情報を集めているが、今のところ何もわかっていないらしい。
私はさっそく電気屋に行って、できるだけ安いテレビを買ってきた(テレビがこんなに見ると楽しく、心を安らげてくれるものだとは)。
確かに朝のニュースでも、昼のニュースでも、夕方のニュースでも、夜のニュースでも「異国で神隠し。消えた
【連載小説】4つの頂点と辺 #7
第2辺:森下智(次男)の章(1)雨がひどく降っている。次のバスが来るまで時間があったので、コーヒーショップに入ろうと智は決めた。ところがバスロータリー前の店は雨宿りの人たちで混み合っていて、席がなかった。
智は舌打ちをし、寒いから中でしばらく待とうと智子に言った。智子は何も言わなかった。智は二人分の席が空くのを待ちながら、ぼんやりと立っていた。傘でとんとんと床を叩いていると、水滴が床にたまって流
【連載小説】4つの頂点と辺 #8
第2辺:森下智(次男)の章(2)父親が死んだのは、智が十歳のときだった。
その年のはじめに、突然、母親が出ていった。母親は自分たちに何も言い残さず、書き置きも何もなかった。消えた、という表現が似つかわしいような記憶だった。今に至るまで実の母親に会っていないし、ほんとうに死んだのかもしれない。
代わりにやってきたのが、知らない女と、その幼い娘だった。
「新しいお母さんと妹だよ」と父親は言った。
【連載小説】4つの頂点と辺 #9
第2辺:森下智(次男)の章(3)さっきね、面白い記事を読んだよ。智は言った。海で漂流して、奇跡的に生還した船乗りの話なんだけど、それを読んで思い出したことがあるんだよ。
僕が高校生のときの話なんだけどね、学校に、屋外プールがあった。二十五メートルのプールだよ。そのプールは、校庭の隅っこにあって、周囲をフェンスで囲まれていてね。
フェンスで仕切られているといっても、それは人の背丈よりちょっと高い
【連載小説】4つの頂点と辺 #10
第2辺:森下智(次男)の章(4)バスは、渋滞に巻き込まれたせいで二十分ばかり到着が遅くなった。それでも三時半には終点にたどり着いた。バスの終着点から智子が行くことになっている病院までは、あるいて十分ほどかかるとのことだった。
智子が行くことになっていた病院は産婦人科医院だった。
彼女がここに来るのは四年ぶり、二度目だ。
智子が診察を受けているあいだ、智は待合室に置いてあった雑誌を手に取った。
【連載小説】4つの頂点と辺 #11
第2辺:森下智(次男)の章(5)「ねえ、あなたたちはただの親せき、という関係でもないのでしょう?」
どういうことですか?
「だって、ひどい傷を負った娘をわざわざあなたのところに寄越したんでしょう。大事な診療結果を、あなたに託したんでしょう。あなたが選ばれたのは、きっとあなたがたは何か特別な関係だからなんでしょう?」
智は面白くて仕方がなかった。すぐにでも誰かに話したい。
(彼女はかつては活
【連載小説】4つの頂点と辺 #12
第3頂点(1)森下家の長男・薫氏が失踪して一ヶ月が経ったが、未だに続報はない。
マスコミもあれやこれやと報道していたが、徐々に森下家に関する報道は少なくなっていった。森下家の長男の妻を追いかけ回していたマスコミだが、新しい情報は何もないし、森下家の母親をメディアに引っ張りだすこともできなかったため、だんだん飽きてきたのだった。
しかしそのマスコミ報道ラッシュの余波は未だ強く残っていて、失踪した
【連載小説】4つの頂点と辺 #13
第3頂点(2)いつか、などと淡い期待を抱いていたが、お近づきのチャンスは思いのほか早く訪れた。
ある日、いつものように犬を散歩させていた午前五時。まだ薄暗い空気の中で、件のアパートの前で倒れている人影を発見したのだ。近づいてみると、誰あろう、森下家長男・薫氏の妻、その人であった。奇跡的に周囲にマスコミはいない。
「もしもし」
と私は声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「んん」と女は声を上げた。
【連載小説】4つの頂点と辺 #14
第3頂点(3)すっかり日が昇ってから、彼女の携帯電話に義妹から連絡が入った。
「ここまで妹が迎えに来てくれるそうです」と彼女は言った。「すっかり長居してしまって!」
それは人の世話になることにまったく負い目を感じていない人間の声であった。こういう人間は気持ちがいい。
しばらくして、森下家の美人姉妹の姉がやってきた。私は感動した。あの、密かな目の保養としていた彼女を、こんな間近で見ることになると