【連載小説】4つの頂点と辺 #4
第1辺:森下つぐみ(長女)の章(3)
「祖父江さん、まだいたんですか?」
声がした。森下つぐみだった。
「ちょっと忘れ物をしたのです」
彼女が言った。そう、とか何とか、祖父江は返事をした。気をつけてね。
祖父江さんしばらくお休みもらうんですって。彼女が言う。そうなんだ。貯めこんだ有給を使ってしまおうかと思っているんだ。
いいですね、私も引越しの準備でバタバタしているから、休みたいなあ。笑いながら、森下つぐみはそう言った。
「引越しするの?」
そうなんです。と彼女は言った。
実は、もうすぐ会社を辞めるんです。
どうして?という一言を祖父江は飲み込んだ。
「今日はもう帰るけれど、夕食でもいっしょにどう?」
祖父江はそう言った後で、自分の呼吸が少し速くなったのがわかった。
「ごめんなさい」
と森下つぐみは軽く笑いながら言った。
祖父江も笑って返した。いいんだ、と言った。
森下つぐみは言った。
まだみんなには言っていないんですが、わたし、結婚することに決めたんです。
赤ん坊はどうなっているんだ?
祖父江は思わずそう聞きそうになってしまった。
頭の中で、かちりとスイッチみたいなものが動いた。祖父江は一歩を踏み出そうとした。一歩を踏み出してしまえばたぶん、何度も想像したことを実際にやってしまうだろうと思った。つまり、彼女を、無理矢理に――。
息を詰めて、何も言わず、不自然なくらい長いあいだ、祖父江は森下つぐみじっと見た。彼女の目は潤んでいるようだった。
森下つぐみは顔をしかめた。どうしてこの人は自分のことをこんなに見ているのだろう?
「帰ります」彼女は逃げるようにして、会社を出て行った。祖父江は、ああ、とか、うう、とかうめくような声を出して見送った。
* * *
祖父江は、森下つぐみのデスクまで行き、引き出しを開けた。どうしてそんなことをしたのだろう、と、一瞬、考えたが、考えたのを無視してしまって、彼女の引き出しが奥まで見えるように、力強くずずずと引っ張り出した。
引き出しの中には、何冊かのノートや、クリアファイルに入った書類や、蛍光ペンやボールペンが、やや無造作に押し込まれていた。ついさっき空き巣に入られた部屋みたいだった。
ぐしゃぐしゃだ、と祖父江は口に出して言った。なんてきたない引き出しなんだろう。この女は白痴なんだろうか。誰にでも股を開いてやっちまうような女なんだろうか。それにしても汚い部屋だ。男の匂いがする。しかも何人もの男が出入りしたような匂いがする。この淫乱女め。
祖父江は引き出しをちからまかせにデスクの外へと引っ張り出し、中に入っている物をあらかたぶちまけてしまった。引き出しの中にあったこまごましたものや書類があたりにとびちった。
なんてひどいんだ。なんてひどい。どうしてこんなことができるんだろう。どうしてこの女は自分の体を何かのスポンジみたいにして男にこすりつけまくっているんだ。
ふいに、引き出しからばら撒かれた物の中に、小さく薄っぺらく、四角い形状のものを祖父江は見つけた。それはコンドームだった。
祖父江は体の中で血が沸騰して、頭に駆け上ったように感じた。
ぞ
ず
ぐ
気配がして、祖父江はふっと背後を振り返った。誰かがいるのかと思ったが、誰もいなかった。祖父江は肩で息をした。気がつけば電気がついていたはずのオフィスは、完全な暗闇に包まれていた。自分の手さえも見えないほどの暗闇だ。その暗闇は奥行きを持ち、トンネルのように見える。
そういえば、と祖父江は思い出す。森下つぐみには妹がいたんだ。そうだ。何がだ?声が耳の奥で響く。まるで自分自身が思いついたことかのように。妹だ。
(イモウトヲヤッテシマエ)
と祖父江の頭の中に声が響く。そうだ。俺はどうして今の今まで、あの女、森下つぐみとのあいだに何かが起こることを、そんな不確かな何かなどを待っていたのだろう?
体の力が抜けた。祖父江はその場に座り込んだ。いつの間にかオフィスには電気がついていて、あとには、森下つぐみのデスクの引き出しの中身をぶちまけた痕跡が、轢断された死体のように残っていた。
* * *
家に帰ると、食欲が戻ってきた。正確には、何か口に入れよう、と急に思い立ったのだ。祖父江は家にあったインスタントのたまごがゆを作って食べた。それだけでは足りないような気がして、冷蔵庫の中にあったポテトチップスを食べた。
これで飲み会に行っても怒られなくても済むし、家に帰っても母親とけんかしなくても済む。
翌日、祖父江はアラガキから、森下つぐみが結婚のために退職することを聞かされた。
「ねえアラガキさん」
祖父江は、一週間前に森下つぐみが配ったクッキーを頬張りながら聞いた。クッキーはすっかりしけっていて、コーヒーと一緒に流し込まないと食べられないくらい粉っぽかった。
「モリシタさんの結婚相手ってどんな人なんですか?」
「知りたいの?」とアラガキは素っ気なく答えた。
「もう断食はやめたのか」
「もうやめました」
「お前も少し筋肉をつけた方がいいよ」アラガキは真剣な顔をして言った。
「俺だよ」
「たぶんそうじゃないかなと思ってましたよ」
二人はそれからしばらく大笑いした。笑いがおさまったあとで、祖父江は、自分が何かをすっかり捨ててきたような感覚を覚えた。それは爽快でありながら、誰かに嘘をついた時のように、冷やりとした気持ちであった。
彼は、心を固めた。
第1辺:森下つぐみ(長女)の章(了)
> 第2頂点(1)につづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?