【連載小説】4つの頂点と辺 #13
第3頂点(2)
いつか、などと淡い期待を抱いていたが、お近づきのチャンスは思いのほか早く訪れた。
ある日、いつものように犬を散歩させていた午前五時。まだ薄暗い空気の中で、件のアパートの前で倒れている人影を発見したのだ。近づいてみると、誰あろう、森下家長男・薫氏の妻、その人であった。奇跡的に周囲にマスコミはいない。
「もしもし」
と私は声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「んん」と女は声を上げた。「あら、もう朝ですか?」
私の犬が彼女の身体に鼻を押し付けて無遠慮に、んが、んがふ、ふうんが、ひん、とニオイを嗅いでいる。私は自分の下心が犬に伝播したことを悟り、恥ずかしくなり、慌てて犬のリードを引っ張った。しかし彼女は驚くでもなく、犬の頭をなでながら、あくびをした。
「お葬式から帰ってきましたら、鍵をどこかに忘れてしまって」
家には誰も居ないのですか?と私は聞いた。見れば確かに彼女は喪服らしい服装であった。
「ええ。そうなんです。困ってしまって」
彼女は私を見上げ、次に「変態女が棲んでイマス」の張り紙が貼られたアパートを見た。
「家に入れないのでは困りましたね」
「いえ。午前中のうちには義理の妹が迎えに来ますから。このまま待っていれば」
私は周囲を見た。
「ずっと外にいるというのも具合がわるいですから、どうですか、私の家がすぐ近くですから、上がっていきませんか」
私は、そう言ってしまってから、自分がいかに不用意な発言をしてしまったかを悟った。彼女に対して、「マスコミが流布した女像を信じて誘惑するマヌケなエロジジイ」という印象を与えてしまった。いや、それは単なる印象論ではなく、私の正体そのものだ。
「失礼!そんなつもりでは、いえ、どういうつもりでもありませんが、はは」
私は無作為をよそおって頭をポリポリとかいた。
「そうですか。ありがたいわ。とっても寒かったんです。私」
彼女はニッコリと笑いながら言ったので、私は驚いた。エロジジイたる私が言えた義理ではないが、この女は余程の好人物か、あるいは馬鹿ではないかと思った。
* * *
彼女が話してくれたことによると、昨日の葬式というのは、群馬であったのだという。義理の従姉妹が突然に亡くなったというのだが、痛ましいことに、まだ十七歳だったという。話しぶりから、自殺ではないかと思った。
「何だか良くないことばかり起こるんですよ」と彼女は屈託なく笑った。「次は私かも」
良くないことが自分の身に起こっている人と思えないほど、健康的で伸びやかな笑い声であった。
しかしその明るさには、薄幸の陰が強烈に射していて、それゆえに、彼女の明るさが宝石のようにきらめいて、光を放つようだったのだ。
私は彼女の姿に、年甲斐もなくときめいていた。
「失礼ですが、お一人ですか?」
私が淹れたコーヒーをすすりながら、彼女は聞いた。
「妻は亡くなりました」
犬は彼女の足元から一時も離れず、ふんが、ふん、あふん、ひんが、ふ、と鼻を押し付けている。飼い主の枯れることのない性欲が犬に投影されている。犬は私で、私は犬であった。
「そうですか。お互い大変ですね」
彼女は相変わらず、お悔やみの言葉には似つかわしくないほどの笑顔で言った。
> 第3頂点(3)につづく
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