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「推し」「推し」うるさいわ、と思っていた時期が俺にもありました(後編)

この記事は後編なので、前編を読んでからご覧ください。





前編の記事みたいなことを

思っていた時期が俺にもありました


「①「推し」という言葉のイメージ」では、今使われている「推し」と言う言葉がライトに使われていることについて書いた。これに関しては、言葉というのは変わり続けるものだから仕方ないというほかない。同じ言葉でも内に含む意味は時代によって変わっていったりする。

何が言いたいかというと、言葉の意味は変わりゆくものなのだから、その変わった意味に違和感を持つのは当たり前だということだ。けれど、その変化は元に戻ることはないのだからそれを受け入れたほうがいい。







「②推しがいて当たり前という現代の人々」では、「推し」に依存する現代の人々に憤りを持っていたことを書いた。



いーや誰が言うてんねーん!

おいおい、自分が高校の時霜降り明星に支えられたの忘れたんかい!!高校で色々しんどかった時めちゃくちゃ依存してたやないかい!

東京生まれ東京育ちなのにキモ関西弁が出てくるくらいめちゃくちゃ自己矛盾してた。

何かに依存していない人間なんていない。「依存」というと響きが悪いが、人は常に何かに頼ったり支えてもらってると思う。もし、自分は完全に自立している、と思う人がいても、きっと学校や会社や家族に支えられているに違いない。
幸い今の僕は自分にはもったいないくらい良い友達に囲まれている。人数とか、会う回数に関わらず、楽しいことをしてくれる人ばかりだ。けれど、友達に裏切られたり、家族と不仲だったりすれば、その人にとって頼るものが無い。そこまでの状況でなくとも、日々の辛いことやしんどいことを忘れるために「推し」を応援することに、人に批判される所は何一つない。

前編の記事で、自分を強く持てとか書いているが、「推し」のおかげで自分を持てるならそれでいいじゃあないか。


今はこう思っているので、前編の記事を書いているときは本当に心苦しかった。そして、あんなひねくれた考えを持っていた過去の僕に一言言ってやりたい。
































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