見出し画像

自己犠牲的な優しさ

4連休が終わり、低気圧がやってきた。晴れの日と雨の日ではテンションも仕事の進み具合も全く違う。すべて暗く映ってしまう雨の日だからこそ、雨の日を楽しめるようになりたいなぁ、と。

こんな書き出しから始まったけど、振り返り以外の記事を書くのは久しぶり。相変わらずですます調なのかだである調なのかははっきりしないけど、だである調は人に見られる時どこかこそばゆいけど、それでもまあ。


先日youtubeでこんな動画を見た。

ちなみにこの右の日本人の方ワセレレの創設者らしい。鬼ビビった。


この動画の1シーンに、「日本は他人の幸せを重視しているのかもね」とあった。ここが引っかかった。



和を重んじる日本では、集団の規則に外れるような人は周囲から冷たい目で見られる、と一般的には言われている。まぁ、そうだよね。
なぜ冷たい目で見られるかを考えた時、異質なものは排除したい、自分たちに合わないものはおかしい、などといった考えが思い浮かぶ。実際この通りだと思っていた。



しかし、動画に出てきた「他人の幸せを重視しているのかもね」という言葉。
なるほど、このような考え方もあるのか。




先ほどの冷たい目で見られる理由を考えた時、視点は自分ではない第三者だ。クラスで例えると、発表者が自分で伝える相手が先生だとしたら、その周りのクラスメイトが第三者となる。このクラスメイトからすれば、周囲から外れる自分は異質な存在であり、それを嫌う。

ここで視点を自分に変えて、「自分が周囲から外れる行動をしない」という行動をとった場合の思考を考察してみる。
無論「周囲から冷たい目で見られたくない」という思いも大いにあるだろうが、
周囲に迷惑をかけたくない」という思いもあるのではないか、と考えた。この気づきを先ほどの動画から得た。

この「周囲に迷惑をかけたくない」という思いは、自分以外の第三者に対する感情だ。仮に自分に「自分の言いたいことを言いたい」と「周囲に迷惑をかけたくない」の2つの感情があった場合、後者の第三者に対する感情が勝る風潮があるのが日本人の気質なのではないかと考える。気質というか、そういう文化、というか。



論は飛躍するが、そう考えるとこれまでの人生の決定を第三者の幸せのために下していたシーンは多くあるのではないかと思う。
親が安心するような企業に行くことを選択した先輩、彼女が好きだというからわざわざお気に入りの髪型を変えた友人。もっと些細なところで言えば、会議が長引きメンバーが疲弊することを嫌って自分の意見を言わずに終わったことや、自身のやりたいことを抑えてまで友人との飲みに付き合ったこと。

これが「優しい」という言葉で表現されている。些細だし日本だけじゃない、という意見ももちろんだけど、こういう風潮って日本強そう。


よく言えば利他的。悪く言えば。。。と書こうとして言葉が思い浮かばない。 
だがしかし、周りの人間を見てみても、世界の日本に対するイメージを考えても、「優しい」という言葉は出てくるように思える。


以前ジャック・アタリ氏の「利他的=合理的利己主義」という考えを知る機会があった。アダムグラント著の「GIVE&TAKE」も読んだ。


それを踏まえて思うことは、「自己犠牲的な優しさ」を持つ人が多いのではないかということ。自分を蔑ろにしても他人の幸せに貢献することがよしとされているのではないかということ。冒頭の「他人の幸せを重視しているのかもね」の言葉は、そういった背景もあるのかも。

日本人が行う利他的行動は、その行動の終着点が自分ではなく他者にある。からこそ、合理的利己主義ではなく、自己犠牲的なものになる、のかも。


こうした方がいい、という結論はないしこういう風潮があるのでは、と書いてきたけど、休学期間を通した今この記事を書いて思ったことは、自分のために生きないとしんどいな、ということ。



他人の幸せを重視しているのかもね

褒められているのかもしれないし、皮肉かもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?